6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2543)

 登校拒否の生徒が親に「学校に行くのが辛い」、「今日は学校へ行きたくない」「高校を止めたい」と訴えたという。登校拒否の原因の詮索は今回はおくとして、その子供に親は「高校ぐらい出なくって,将来どうするの」と言ったということです。ここで問題としたいのは「今,今日------で困っている」という問題提起に親が「将来どうする,将来,将来!」と答える点です。「今」を問題としている子供に「将来」の問題として答えている行き違いが問題です。
 私自身を振り返っても,将来どうする、将来のため、といって行動してきた。いや今も同じような発想であります。課題を一つ一つ乗り越え,来たるべく将来のため、明日のためと考えている。上を目指す,上昇思考,明るい将来を目指していつの間にか「今・今日」を明日のための通過点,手段・方法的な位置に置くと言う考え方に堕していたのです。臓器移植で臓器を受ける人の基準にも年齢制限があり、将来の短い(?)60歳以上の人は候補者になれないのです。最近あった若者の殺人事件で「相手は誰でも良かった。人を殺すとはどういうことか経験したかった。前途、将来性のある若者でない人であれば誰でもよかった」という犯人の声にも将来思考は貫かれています。
 私達、大人は生活の中で本当に「今」という時を全身で受け止めて生きたことがあるのでしょうか。若い人は未来の為といって「今」を全部取り上げられていないでしょうか。大人も今という時を失って,何か向こうにある幸せを手に入れようとして、ただ夢中になているというのが現実ではないでしょうか。
「今・今日」将来の為に頑張る。このことは何処か考え方に間違いがあるのでしょうか?
 未来に向かって「頑張る」と言うことに上昇思考が現われています。日本人の勤勉さの特徴であろうが、頑張ると言うところに身に染み付いた力(りき)みがあります。与えられた条件の中で自分の役割をただ演じきれば(完全燃焼)よいのでしょうに。
 「‐‐すれば‐‐‐になる」と言う(理性、知性的)発想で考えることが身についているので、そこでは「---になる」という結果の所が関心事であって、「‐‐‐すれば」の所は条件的,手段・方法の部分になり一番の関心事ではなく「従(じゅう)」の部分になります。
 大無量寿経の東方偈と言われるところに「知法如電影 究竟菩薩道」(法は電影(でんよう)の如しと知れども、菩薩の道を究めていく)と言う一節があります。「法」とはここでは世間の出来事,物事と言う意味でしょう。 また、聖徳太子の言葉に「世間虚仮 唯仏是真」という一節があります。世間の事を夢・幻の如く電影といって頼りにならないものという認識や虚仮と言って虚しい仮のものと言う認識であります。わかりやすく言えば真実でない流転の世界と言う意味であります。
 政治に代表される世間では、世間に確かなもの(真実)があると言う世界です。そこでは物事の結果が尊重されます「結果優先」であります。途中のプロセスがいかに困難を克服して頑張ったかは問わないのであります(例えば、数年前のペルーの人質事件は少ない犠牲で結果が良かったから当時評価されたのです)。
 今・今日、将来の為に頑張るという発想には将来の「確かな世界」があるという前提があるのです。それゆえに結果重視の発想が出てくるのでしょう。
 仏教では、今も将来も世間の世界は虚仮である、虚仮なるものを繰り返してもそれは流転であるという見方の世界(発想)では,将来の結果より「今・今日」を大事にする発想は自然なことであります。(しかし,世間を虚仮だからといっておろそかにするものではありません)
 「今・今日」を大事にするためには「区切り」という物が大切だ聞いていたことがあります。ある念仏者が「念仏で切れることが大事です」といっていたことが思い出されます。仏教の考え方の基本に縁起があります(因と縁が和合して働き(業)が起こり結果が生じる,その影響が次に及ぶ。このことの繰り返しである。)。一刹那(75分の1秒)ごとに生滅を繰り返している。過去を引きずらない,今を未来に持ちこまない、切れていくのです。
 念仏の教えを頂くものは縁起の考えの如くに念仏のたびに切れる(区切りがつく)のです。過去は引きずらずに常に今,新鮮な時を賜るのです。我々は過去の元気な時、調子の良い時のモノサシ(考える基準)を持って今の不遇を愚痴りやすいのです。過去が切れてないのです。念仏の教えを頂き、頷ける時、過去が不思議にも切れると言うのです。切れた時、「今」は将来への通過点ではなく,輝く充実した今になるのです。
 私達は過去をモノサシにして今を生きています。自分の経験や経験の積み重ねを自分の判断基準として自分の考えに自信があるのです。間違いない,正しいと。そして将来に向かって生きようとするのです。今までは経験を生かしてやって来れました。しかし、年々進歩する科学技術を前(コンピューターに代表されるもの)に経験が大きな位置を占めなくなって常に新しい情報が物を言う時代に直面して、不透明な将来へ不安を感じるようになります。体力に自信のあった時のモノサシを未練がましく持ち、微かに自信のあった知的能力(経験を含めて)は通用しなくなる時代性を感じて自身喪失となります。
 現在、若者は将来の為に今を失い、歳よりは帰るべき(誇るべき)過去を持てなくなっている。共に今と言う時をもてなくなっているのではないでしょうか。
 教えに照らされ「今」を全身で受け止め、念仏で切れて行き、新しい時(今)を頂き常に初心である生活をさせていただきましょう。(悟り,信心とは常に「今」にありつづけることです)
 勉強はそこそこやっているのであろうが、学業以外に部活動として剣道,そして将棋同好会と時間をたっぷり費やしいる高校生の息子を見るとつい「高校生活を楽しんでいるね?!」と皮肉の一つも言いたくなる私です。南無阿弥陀仏

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