7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2543)

 蓮如上人の「御一代聞書」(いわゆる語録を集めたもの)に、幼少なるものには「まづ物を読め」と仰せられ候。またその後は「いかに読むとも復(フク)せずば詮(セン)あるべからず」由仰せられ候。ちと物に心も付き候へば「いかに物を読み声をよく読み知りたるとも義理をわきまえてこそ」と仰せられ候。その後に「いかに文釈を覚(オボ)えたりとも信がなくばいたづらごとよ」と仰せられ候(215章)。 同じく仰せられ候「世間にて時宜(ジギ)しかるべきは善き人なりといえども,信なくば心を置くべきなり,頼りにならぬなり、たとえ片目つぶれ腰をひき候うようなる者なりとも、信心あらん人をば頼もしく思うべきなり」と仰せられ候(97章)。のような文章があります。
 語録の内容は時代背景等を考えその文面に囚われずに言わんとした心を考えることが大切だと思います。これらの章の中心課題は「信」・「信心」であります。仏教でいう「信」とは自分が「信じ込む」、とか「信頼している」、とか「決めた信念」とか「築き上げた信念」という意味ではないようであります。
 太陽が東から出て西に沈むのはみんな知っています(太陽系宇宙が少なくとも45億年ぐらい繰り返しているのを私達は毎日経験しています)。雨が空から降ってくることも日の出,日の入りと同じように人間の思いを超えた事実です。動かし様のない事実だからいまさら信不信を言わないぐらいにこの事実を信じています、そう言うのを「信」といいます。「信」とは仏のはたらきを明らかに受け取れたということを意味しています。
 よき師、よき友を通して仏が我々の苦しみ悩んでいる事実を見て「小さな世界で分別に振り回されるのではなく、大いなる仏の智慧と慈悲の世界に来たれ」と,呼びかけ、はたらきかけられている事を明らかに頷けることが「信」ということでしょう。仏のはたらきかけの及んでいる場を「浄土」ともいいます。
 自分の苦しみ悩みを智慧に照らされて見ると、人間の最大の弱点は,事実を自分の都合で曲げてしまおうとすることのようです。人間が生まれて来たと言うことは必然的に老・病・死を含んだ(セットになっている)「生」を生きることなのに、老は嫌だ、・病は嫌だ・死は避けたいと「生」と老・病・死を離して考えて行きます。これを仏教では人間の「分別」と言います。(分別のかわりに「煩悩」という言葉を使う事もある)
 私達は理知・分別で自分の思い通りに(便利・快適・早く)事が運ぶようにと今までいろいろ考え、実行してきました。文明の利器はそれが実現できるような夢を我々に与えてくれました。生活は確かに快適、便利となりました。病気もかなり克服できるようになりました。死も多くが病院で扱われ、あたかも死はないかの如く衆目に露出しないように覆われて飾られて葬儀もなされます。しかしながら,老・病・死は厳然と存在しているのです。
 戦後の団塊の世代といわれる我々も50歳の節目を超え、世間では決して若い世代と言えなくなってきています。友人と久しぶりに近況の情報交換をすると,仕事の事は当然として,更に親の看護・介護,子供の教育・自立,そして自分自身の健康の課題が現実として迫って来ていることに気づかされます。
 現代の科学的合理主義(戦後の教育を含めて)の中を生きてきて、行く先には明るい未来があると夢見て追い掛けて走ってきて、あらためて自分をそして自分を取り巻く現実を大局的に見ますと。思いが実現したことあり、また思い通りに行かないことも多い、予定外の課題が持ち上がってきて困惑していることもあります。今までの生きてきた時間よりこれから先の時間が短いことを感ずるとき、このままで良いのだろうかと心の奥からつぶやくものがあり、不安がよぎるのです。−−−−「君はこれでよいのか?」は良き師の言葉でした。
 自分が生きていることはどんな意味があるのだろうか、自分が生きて行くことにどんな意味があるのか?、今後の自分のいきる方向性は?。
 あらためて思い出されるのは蓮如上人の「信なくばいたずらごとよ」の言葉です。信・信心とは分別を超えた仏の智慧の世界、仏の智慧を頂いた世界をいいます。分別を超えた世界を無分別とも表現します。
 無分別の世界を自然(ジネン)の世界ともいい、親鸞聖人は「本願の海」とも言われました。本願とは生きとし生けるもの全部を生かすという願いです。我々は無分別の世界の真中にいるのです、自然の世界の真中にいるのに,そこに自分勝手に分別で地獄を作り、しかもその地獄から逃れたいというのです。実は始めから仏のはたらき(智慧あらしめたい,命あらしめたい)の世界,浄土(自然の世界)にいるのですから、そこから逃れる必要はないのです。私の分別が仏の世界なんかないと科学的合理主義によって疑っているだけです。
 科学的思考の前提に再現可能という事象を対象にしているということがあります。それは繰り返し実証されてきた堅実な頼りになる考え方であり多くの成果をあげてきています。しかし、再現不可能な自分の人生のこと、そして自分が生きる意味を科学的合理主義で納得し説明できるのでしょうか。
 自然の無分別の仏の世界にいるということに目が覚めないで分別の世界を唯一の世界としがみついて,一人相撲を取って自分で苦しみ悩んでいるだけのことかもしれません。その結果を空過、むなしく過ぎるといいます。「信なくばいたずらごとよ」の言葉が身にしみる事であります。南無阿弥陀仏

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