8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2543)

 広辞苑では「いのち」の項目に・生物の生活する原動力。・寿命,生命、生きている間、生涯。・命の絶えること,死ぬこと。・唯一のたのみ、よりどころ、最も大切なもの、と出ています。 最近の17歳の絡む殺人,自殺等の事件を通して「いのち」の尊厳、大切さに注目されていますが「いのち」の意味を整理しながら使わないと焦点がはっきりしなかったり、説得力に欠く事になりそうです。
 仏教の観点を入れて「いのち」の意味を(1)生物学的な命、生命現象(2)我々が生きる「生」を成り立たせる原理,原動力、(3)大事、大切なもの、と整理できないでしょうか。(1)は物質現象としての「いのち」であり、最近話題のゲノム,遺伝子として解明が進んでいます。それらの目指すところは(2)の領域も包み込もうとしているのでありましょうが、現時点では不可能でありましょう。
 生物学的な生命現象が解明されることで保健、医療,福祉の分野では役に立つことは明らかでありますが、それが(2)の私の生きる元気や勇気につながる原動力になるということには成りそうもありません。科学的合理主義による生命現象としての命は物質現象です。その「いのち」が大事であると言うと。その身体を維持すること、そしてその身体の欲することを満たすことが大事と言うことになります。そうすると「満たすため」の競争は必然のこととなります。
 いのちの尊厳を叫び、人の命を傷つけたり殺したりしないよう教育関係者は生徒を指導します。しかし,今一つ心に響かないような気がいたします。「なぜ人を殺してはいけないのか」と言うことは「共同社会の成員(自分を含めた)は相互の共存を図るため」ということでしょう。いのちが大事と言いながらお金を大事にしている大人の社会の現実が若者には見えているのかもしれません。
 建て前は「いのちを大切に」という一方で本音では競争だと言うことが現実で、そのためのルール(法律等)を作ることで摩擦を少なくしようとするのが現代社会でしょう。 現実には競争,比較を免れないが故に、いろいろな事に振り回され、流転を繰り返しているのであります。その人間の欲望が科学技術を進展させる力に成ってきた事はみんなの認めるところであります。
 経済活動で新たな需要を喚起するということが言われますが,これは新たな欲望を刺激して需要を起こすと言うことであるようです。
 一方,仏法で言う「いのち」とは、私の「生」を成り立たせる原理、原動力を言い「仏のいのち」「永遠のいのち」「本願」「南無阿弥陀仏」といいます。阿弥陀仏,即ち光明無量,寿命無量で表わされるものです。特に無量寿の働きは大悲ともいい、・いのちなき(自他ともに物化,道具化している様)者をいのちあらしめたい,血の通った温かい人間になって欲しいとの働きかけであります。また・世間事に振り回され流転を繰り返す「生」でなく,私は私で良かったといえるような完全充足の「生」を全うして欲しいとの働きかけであります。
 いのちを見失っているが為に、若々しく生き生きと愉快に楽しくという日常性に囚われて、暗いもの老・病・死はないものとして目をつむり、片隅に押しやり意識的に見えないようにするのが現代人の日常生活であります。しかし、その日常性は不自然さ,非本来性の為にその生き方はほころびが出て、結局は自然の姿,本来性に引き戻されてしまうのです。
 非本来性を本来性と錯覚し、不自然さの故に,摩擦,軋(きし)みが引き起こされてくるのです。事実を事実として見る、存在のあり方の事実に目覚めよと言うのが縁起(全ての物は無数のご縁,ご恩によって成り立っている、そして生滅を繰り返している)の考え方の基本でしょう。
 自分の智慧のなさに気づかず、自分の想い通りにならないと瞋恚(しんに:怒り,腹立ちの心)の炎を燃やすのです。その結果、自分を傷つけ,他をも傷つけてしまうのです。そんな苦悩している我々をみそなわして、大いなるもの(真如,一如,仏)は衆生我々を大悲されるのです。そして本来の姿、自然の姿に帰れと働きかけて止まないのです。
 自分の「生」を成り立たせる原理としての「いのち」は自分ではなかなかわからないけど、仏様の「いのち」はどのようなものかを聞いていくと自然と自分のいのちに気づかされて行くということになります。大いなる世界(仏の世界)から我々に南無阿弥陀仏と呼びかけるはたらきによき師・友を介して触れ(自分の思い,殻が照育,照破され)て感得されるのです。その感動を不思議と表現しています。
 南無阿弥陀仏の生起本末、いわれを聞き開いていく中で自分の生き方、生を成り立たせる源(みなもと)、エネルギ-ともの言えるようなはたらきを感じ取る事になるのです。
 南無阿弥陀仏と称えさせてもらうことは無限の光と寿(いのち)に一体化すること、無限の光と寿に同化すること、無限なる生命に包まれるということでしょう。
 私がどのような生活をして自分のいのちを汚していても、念仏によっていのちの汚れに気づかされ、念仏によって浄化させてもらう働きが備わるのです。
 まずは「仏のいのち(南無阿弥陀仏)」を聞かせていただくことからはじまるのです。

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