9月のご案内(B.E.
Buddhist era 仏暦2543)
中国のことわざに「つくつく法師(せみの名前)は夏生まれて夏死んでしまう。つくつく法師は春秋を知らず、したがって夏も知らない。」というのがあります。これは浄土論註という書物に引用されています。
物事を認識する方法の一つに他と比較しながら物事を認識するということがあります。公務員(私もその一員)はすぐに前例はあるか、他の部門ではどうしているかといつも他の同じような事象ではどうなっているかを見ようとします。いつも比較して自分の位置,あり方を点検、確認しているのです。
つくつく法師はこの世での夏の一週間をこの世の全てだと見るのでしょう。四季の中の夏という一部は確かに見たでしょう。しかし、自然の四季の変化の中の夏と言う認識は無いでしょう。(これは人間が勝手に判断していることですが)
他と比べて相対的に認識をしたり、全体像の中の自分の位置付けを考えたりして見ないとその一部の認識も深まらないということがあります。外国に行って生活してみて初めて日本の実態を再認識すると言うのはよく聞くところです。
見える世間の生活を、そして自分の理知で把握できる世界を全てだと思っている現代人は,出世間の世界,仏法の世界を認めない傾向があります。その理性を誇る現代人が一方では地鎮祭をしたり、運勢判断、日時、方角の善し悪しに囚われるのですから困ったものです。
現代人は相対的世界(世間)を絶対視して理性の傲慢さの中に落ちていてその自覚がないのです。全体像(大いなる世界,仏の世界)がわからなくて局所(世間の世界)だけを見て、現実を分かったつもりでは現実の正しい認識になってない可能性があるのです。
世間の世界を分かったつもりでいた者が仏の智慧(光明無量)に照らされて大きな世界(仏の世界、如、自然)を知らされてみれば、自分の今までのことが夢の中だった、目覚めてなかったという自覚になるのです。
仏教は我々が知っている世界を超えた世界があるというを示してくれる教えです。この世で「どうしょうもないじゃないか」「死んだらおしまいだ」などと絶望,やけになって愚痴をいっている、我々にこの世を超える(時間的・空間的)世界があると教えるのです。
知的世界では新しい知見は知識が増えた(物知り、博学)ということになりますが、本人自身は変わらないでしょう、知識は好奇心を刺激しさらなる追求へと揺り動かすでしょうが生きる力、意欲等にはあまり関係しません。
宗教(仏教)では夢であった認識主体(私、本人)が覚めた時に変わるのです。凡夫が菩薩、仏になる。われわれが何かを知ると言うことによって,知る者自身が変えられていくのが宗教行為の特徴であると言うことが出来ます。
光に照らされると(聞法のはじめ、お話を聞き始めると)自分の実態が少しずつ見えるようになります。それを識者から教えられて、自分を知らされると言う世間の延長線上の出来事と理解します。知らされることの内容は世間的に見ると自分の嫌な面が多く見せつけられます。それまでは深く考えてなかったり、薄々気づいていたりしていたものを明らかに言い当てられるのです。そのことを照らし育てられる(照育)と言いますが,更に照らし破られる(照破)ということが大事です。
正信偈(親鸞の著作:教行信証の中のうた)に「譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」(たとえば日光の雲霧に覆わるれども雲霧の下明らかにして闇無きが如し)と言われていますが、「雲,霧に覆われて暗い」この暗さが気になってしょうがない。どうして暗さばかり見るのでしょうか。明るいものを仏教では見ないのでしょうか。人間の明るい面をもう少し見るようにして行けないのでしょうか、と聞法のはじめの頃に、そしてその後もかなりの間、陥り易い気持ちであると思われます。
「曇っている」ということが暗いということを指しているだけでなく、実は雲が見えたということは実は薄明かりであっても夜が明けた証拠でもあるのです。
しかし、自分の現実が暗いと言う一面しか見えないと言うことは夜がまだ明けてないわけです。照らされた世界を対象化し実体化しているからです。光は光自身を現すと共に闇をあらわす。光を頂けば益々深い闇が頂ける。普通は知れば(照らされれば)闇は無くなる,闇の無くなることが信と想い、そして明るい状態になると思い込んでいるからです。
人間の深い迷いが「対象化」です。理性・知性で対象化し分析的に把握していけば全体像が認識できる考えているのです。細川先生は対象化を超えて一体化する事で本当にわかるということがあると教えてくれました。
夏がわかるには夏と一体化して夏という場に身を置くことで夏はうなずけるのです。頭の中で夏を実体化してわかる、わからないということを超越した事実がそこにあるのです。
「唱(とな)える」というと対象化してとなえる(唄をうたうように)ということです、「称(とな)える」とは称えたままが仏とつり合う(「称」にはハカリという意味があり、つり合った《等しくなったが転じて一体となった》様を意味する)のです。
信心決定して南無阿弥陀仏と念仏するとき仏の世界(光明無量)と通じる世界を賜るのです。仏の智見を賜り仏のはたらきと一体となり(念仏して)感動を持って頷く世界です。(続く)
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