10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2543)

 現実世界で避けることの出来ない課題に出遇う時、それをどう受け取って行くか。課題を対象化して傍観者的に運命(本当は煩わしいことは避けたいのだが)だとあきらめるか、宿業と受け取るか。仏法に照らされることで受け取り方に相違が出てきます。
 仏教の縁起の考えでは、ある「因」があって,これが「縁」に触れて(条件が整って),作用、はたらきを起こすそれを「業」(ごう)という。それにより「果」(結果)がでて来ます。その影響(報)が次に及ぶ。この繰り返し(因縁果業報)がこの世のいろいろな事象であります。これを縁起の法といいます。
 仏教では事象が起こるには多く(無数)の因や縁が集まって起こるのであり、起こっている様を業と言います。業とは私の現前の事実(現実)であります。 宿業、業というと暗い、避けて通れないものというイメージがありますが、「宿」とはやどされたモノと言う意味で、一つ一つの因や縁に宿された歴史みたいなものがあるのです。それらの因や縁に秘めたものをも含んで引き起こってくるはたらき、現実を宿業といいます。
 現前の事実を対象化,分析し、実体化して,少し距離を置く見方をして世間的な対応をするのか、縁起という教えに照らされいろいろなご縁,ご恩によって「私に与えられた課題、南無阿弥陀仏」(私の宿業)と受け取り真正面から荷うのか、のちがいであります。
 現前の事実(宿業の課題)にはこの世的な解決を目指して理知で考え努力して行くしかないでしょう。それは解決することもあり,解決しないこともあるでしょう。どちらにしてもその事実が我々に世間での現実の姿が流転の相であることを教えてくれるのです。
 我々の誇る理性は現実を合理性のもとに自分の都合にかなうものか、役に立つものか、利用できるものか,自分の利害に結びつくかなどと分別して考えていきます。しかし、合理的な受けとめや運命という見方には救いがありません。
 宿業という受けとめには救いがあるのです。仏法で言う宿業は責任を引き受けると同時に超越(分別を超える、利害損得善悪を超える)ということが伴うからです。宿業には責任を引き受けると同時にそれを背負う力が与えられている事実があります。細川先生が「親鸞」と言う劇を見た時、親鸞の役者が苦渋に満ちた顔で「宿業」と言っていた。あれは違う。本当は明るい喜びを秘めた顔で「宿業」と言うべきですとおしゃっていました。
 「業」・「宿業」というものが見えた時そこには無数のご縁,ご恩へのかたじけなさという視点の転回が伴っているはずです。対象化(知的理解)ではない宿業の頂きのなかに必然的なご縁・ご恩への謝意が付随するのです。 そこには認識主体の転回(分別から無分別へ)をも伴っているからです。
 この世の全てのものは時々刻々に変化しています。 生滅を繰り返しているのです。 しっかりした私があって「業」を受けとめるというのとは違うのです。私という存在もガンジス河の砂の数のご縁によって有らしめられているのです。私を含む状況をもこみで存在あらしめられている現前の事実を宿業というのです。
 「歳を取り眼や耳が不自由になる事実に,今まで正常である事が当たり前と思っていた、本当は恵まれていたのだと念仏させていただいています」と念仏者の言葉を聞いたことがあります。宿業として現実に存在あらしめられていることにかたじけない、ありがたいとご恩を感じざるを得ないのです。(世間的に言うならば他と比較して恵まれていれば,運がよかった、自分が頑張って獲得したのだと誇り、恵まれてなければ運が悪い、その責任を他に転嫁して愚痴を言うしかない我々です。) 我々はどこまで恵まれれば満足するのでしょう(足るを忘れている)。何歳になるまであれが手に入れば,あの課題が解決すれば、と餓鬼の如く足りない足りないと限りなく求めることしか知らない存在です、南無阿弥陀仏。
 仏の世界から名号,南無阿弥陀仏(汝!,小さな殻を破って大きな世界に来たれ)として我々にはたらきかけられているのにこちらが聞く耳,見る眼を持たないのです。耳,眼が育ってないから仏の波長に合わないのです。こちらの責任を忘れて仏の方に文句をいうのが我々の理性でしょう。仏教の言葉を人間の言葉として聞けば哲学や心理学みたいになってしまい、自分のことは忘れ、他人の心の内面を鋭く批判する知識は増え、邪見驕慢(人の悪口がうまくなる)になりがちということがあります。仏法を学ぶとは学識を増やすのではなく,位を下げて,迷える存在として,疑い多き存在として,赤裸々になって聞くのです。知識を付け加えるために学ぶのでは無く,捨てるために学ぶのです。
 救われるとは仏と言う人に助けられるのではない,不自然のあり方をしている我々が本来のあり方,自然(じねん)のあり方に道理によって戻される訳です。道理は癒す意志があるわけではないけれど、本来の姿に戻す働きがあるのです。現実を受け取れずに振り回されたり責任回避や愚痴でまさに流転しようとしている私を悲しみ智慧有らしめたいと働きかけてくれるのです。自分を見失いそうにしている私を転じて宿業を担って行く存在にならしめ、私が主体性を回復させられることになるのです。阿弥陀仏(南無阿弥陀仏)は自然の働きを知らせる方便の働きです。
「念仏が与えられている」という事はいつでも憶念ができるということです。世間生活では観念としてわかるとか,ふと分かったとか、ふと感じたというようなものは,何日かたてばすっかり忘れてしまう。体(たい)がなくなってしまい、消え飛んでしまうのです。人間の考えや経験はどんどん流されてしまうのです。だから「念仏」するということは宗教生活にとっては大変大きな位置を占めるのです。南無阿弥陀仏

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