11月のご案内(B.E.
Buddhist era 仏暦2543)
大分県でも緩和ケア研究会が発足します。患者さん一人一人の苦痛・苦悩を緩和する総合的な取り組みを大分県でも考えていきましょうという研究会です。(私も世話人で参加しています)
最近の傾向として人間の終末期は病院がその場になることが多くなりました。否応無く病院の医師や看護婦が対応することになります。今までの日本の医療は医療技術が優先され治癒可能とか管理可能な疾病には救命・延命へのそれなりの効果をあげてきました。しかし、治癒困難な進行したガン、いわゆる難病、回復できない固定した障害、老化現象としての変性疾患(老衰等)に対して十分な対応や癒しがなされていたかと反省させられています。
人間の苦悩を考えてみると「自分の現実(疾病、不本意、思うようにならない、等)」と「自分の思い(健康、自由自在、等)」の間に差があることが苦しみ、悩みになると思われます.そこでその差を小さくしようという取り組みが医療であったり日々の我々の活動であります。
疾病に対して仏教が力を発揮できるのは医療技術と競争して治癒させようという分野ではなく、心身の安定に寄与して自然の治癒力をたかめるとか現実の受容ということで苦悩を小さくするというところでしょう。もし宗教が病気を善くするとするならば医療技術のように科学的評価の同じ土俵の上で公正な評価を受けると言う試練(関門)を経る必要があるでしょう。
ある宗教を信仰したら、どこどこへお参りしたら病気がよくなった等は全く客観的評価に耐えないものです、しかし、意外とこれに引っかかる現代人は多いのです。 これは今の医療がそうさせる状況を作っているとの反省をし、医療関係者として信頼される医療環境を築く努力をしなければなりません。
現代の風潮として元気で若々しくイキイキと生きる「生」を追い求め、「老病死」は避けたい,なくしたい、逃げたい、先送りしたいと無意識のうちに「生」と「老病死」を切り離し、「生」だけを求めるがために、「老病死」の現実の受容ができなくなっているのではないでしょうか。同時に「生」自体の意味(人間に生まれた意味、生きることの意味)をも見失いがちであります。
老病死を切り離した「生」は,何かを外に求め、何にかになる(明日,将来)ことで充実感,生きる力(動機)を求めようとします。その根底には「不安」という根本気分がありそれを解消しようとの無意識の衝動が人間を動かしているのです。順風な時にはある程度の充実感を持てる時もあるでしょう、しかし、それは一時的であり通過点でしかなく、常に次の充実感を求めて追い立てられることになります。一時的に趣味、スポーツ,賭け事、等でその不安を紛らわせようとすることもありますが根本気分は変わりません。仏教はこういう実態を「空過」・「流転」と指摘しています。
「老病死」と切り離せない「生」への自覚、教えに育てられ「老病死」に裏打ちされている「生」への気づき(自覚)の中に一人一人が輝いて個性豊かに生きる「生」があります。(阿弥陀経には「青い花は青い光を、黄色い花は黄色い光を、赤い花は赤い光を、白い花は白い光を放ち,いずれも美しく、その香りは気高く清らかである。」と出ている) そこには「生きる」ことへの感銘、それは生かされていることへの感謝(ご縁,ご恩)、自分が自分であること(私は私でよかった、今に完全燃焼の私、摂取不捨されている私)への「喜び」をともなうものであります。自分の現実(老病死をも含む)の受容はこの自覚のうちに不思議にも実現できるのです。(歎異抄第一章,「念仏申さんと思いたつ心の起こる時すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」)
我々の思いは世間生活で善悪,損得、勝ち負け等考えながら行動しています。その思慮分別への捕らわれに気づかされ念仏(南無阿弥陀仏)する時、智慧(光明無量)慈悲(寿命無量)と通じ合い、一体となり、過去とも切れ,未来とも切れる(持ち越し苦労、取り越し苦労を超える)念仏において、「今」を全身で受け止め、仏の命(永遠のいのち)を、今、ここで生きることになるのです。その「今」の足し算が1週間、1ヶ月、1年へとなります。
仏教ではいのちとは生命現象としての命と区別して、私の生きること「生」を成り立たせる原理,原動力をいのちといいます。仏教への目覚めが無ければ頷けない「いのち」でしょう。あえて言うならば我々は2重のいのちを生きているのです。生命現象としての「いのち」、これは生身の自分を考えれば誰でも納得できます。その生身の身体が「仏のいのち」に支えられているのです。これはなかなか気づかれません。仏のいのちの内的存在が生身のいのちです。(如来内存在) 科学的合理主義の教育うけてきた我々には認めがたいものです。
生命現象としてのいのちを大切だとしてきた現代人は理知の傲慢さゆえに「生」と「老病死」を分け「生」の部分だけを追いかけ自分の思い(快適で便利な生活)を実現しようと取り組んできました。一部は確かに実現できました。そして夢を限りなく追いかけるのが現代人だと豪語しています。原爆はアメリカが日本に落としたと考えるのではなく人類が人類に落とした、サリンを初めとする生物化学兵器は人類が人類を滅亡させることが可能な手段を理性・知性にあふれた人類が手に入れたと言うことです。 理性・知性の目指す方向性のなんと危ういことか!。
煩悩の満足を目指してまさに迷走して結果として、自損、損他している我々に智慧あらしめたい。いのちあらしめたいとの働きが私の心の奥底(いわゆる仏性、仏となる種子)に響き、共鳴する時、仏の我々への願い(本願)の内容こそ私が心の奥底で願っていたことであったとの頷きになるのでしょう。仏のはたらきの場(浄土)において私があるがままの私でよく、私は私に成り切ればよいとの自体満足の世界の展開がおこります、そして不思議にも現実の受容へと導かれる道となるのです。(次回へと続く)
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