12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2543)

 医療の世界でEBM(Evidence Based Medicine)といって対象を客観視して人体を科学的に研究して客観的なデータ(治療方法,治療結果等)に拠った医療を行うようになっています。今までなされていたものをより客観性・合理性のあるものへと言う動きです。
 それを補完するようにNBM(Narrative  Based  Medicine、narrativeとは物語性という意味)ということが取り上げられようとしています。人間が一人一人持っているも物語性(その人の社会状況の中で持つ世界観,価値観,病気観等を反映するもの)を大切にしようとする流れであります。単なる肉体を持った存在としての人間ではなく,周囲との関係で社会性を持った人間を考えてと言うことです。訳して「物語と対話に基づく医療」と言われようとしています
 人はその個人の物語を生きているわけです。医師が正しいことを指導すれば患者は直ぐに従うと言うものではありません。健康には悪いと言ってもなかなか生活習慣を変えることの出来ない人間の個別性(個人の生き方)を大事にして対話して行くというものです。つまり個人の物語(生き方)に医師の物語を挿入して患者の物語を修正しようとするわけです。
 対話で1つの物語に収束する場合は良いのですが,患者の物語と,医師の物語がうまくかみ合わない時が問題です。患者が自分の物語を整理出来ずに戸惑っていることもあります。患者,医師のお互いの物語の柔軟性のないことや、日本の診療体制が一人の患者に多くの時間を費やすことの出来ない現状はこのNBMの実現を阻む要因であるかもしれません。
 診療活動で医師は患者の病気を治癒させると言う目的で現代の科学技術を総動員して取り組みます。医学は病気を治癒に結び付けていくという物語を持っているわけです。その反面には、医師が病気を治せないと言うことは「医師の敗北である」とか患者を治せない自分は「ダメな医師である」と言う物語を持っていると言うことになります。
 高齢化社会ではすべての人が老化に関係する病気を1つや2つは持って、また加齢による障害をもって生きざるをえない現状があります。そして人間は最終的には死を免れることは出来ません。だから自然の生命現象,加齢現象を考えた時、医師が治癒を目指す1つの物語しか持たないと言うことは融通性を欠くことになります。
 更に進めると、一人一人の人間が人間に「生まれた」ことの意味(物語)、「生きる」ことの意味(物語),そして死ぬと言うことの物語を持ちえるということが大事と言うことです。ある僧侶が「人生とは死に場所が見つかるまでのあがきである」と言っています。生まれたこと,生きること,死ぬことの自分なりに納得できる物戟(個別性と普遍性を備えた)を持ちえる時、自体満足(存在するということが満足につながる)で自由自在な人生が展開するのではないかと思われます。
 人間のいのちをどのように理解し,生きられるべきかということで、禅宗の師家である花岡永子氏(大阪府立大学教授)はまず西田幾太郎(哲学者)の分類に沿いながら、単純な方から・物質的生命、・生物学的生命,・動物的生命、・精神的生命、・宗教的いのちと5段階に説明されています。脳死を人の死とするのは前記・・・を人間のいのちと考える時には納得できる話と思われます。・精神的生命、・宗教的いのちまで考える時には脳死を固体のいのちの死とすることには未解決の問題をかかえていることになります。
 我々が命をどのように考え(物語性),生きているかによって自然とその人の発言や行動,感情にその内容が反映されるように思われます。いのちを前記の・から・のどの段階で考えているかに従って当人の心の深さ、豊かさに違いが出てくるようにも思われます。
 ある念仏者のお話で旧制中学生の時、「米粒には仏さんが宿っている、大切に頂きなさい」と言われて育って、授業中に顕微鏡で米粒の切片の観察した時、「仏さんがいないと」言うと教師は「そんな話を信用していたのか」と馬鹿にするように言って、「米は炭水化物や脂肪等で出来ているのだ」と教えられたと言うことを聞いたことがあります。
 米の表面的な価値(栄養価,味、成分等)を考え,金に換算して、米の評価をするのが現代的合理主義の考えでしょう。米の背後に隠されているもの、米に宿されている意味,しいて言うならば米の中に込められている物語(自然の恩恵,米を作る人々のご苦労、ご飯として食卓に上がるまで手間と願い)を見失いそうなのが今の時代性ではないでしょうか。「仏が宿る」の教言により一粒たりとも大切にする姿勢に,自ずと仏に拝まれている,願われている自分の発見があり,自身を尊ぶ感性へとつながっていくのです。
 我々は食前に仏教者のたしなみとして「われ幸いに仏祖の加護と衆生の恩恵とによりて,この尊き食を受く、謹んで食の由来を尋ねて味の濃淡を問わじ,謹んで食の功徳を念じて品の多少を選ばじ、いただきます。」と食前の言葉を言うことを勧められています。
 小さいころから素直にいつもこの言葉を言っていた息子が中学,高校と進学するようになって、世間的な知恵がついて来て、どうして食前の言葉を言わないといけないのか、色々な食材は人間に食べられるために存在するのだから食事の開始を告げるように「頂く」だけでよいのではないかと言い出したことがありました。(続く)

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