1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2544)

 本年も12月となり、皆様のご支援を頂き、会を継続することが出来ました。自分の学びの場と頂いていますが、皆様のご意見、ご批判、感想、質問をお待ちしています。今後ともよろしくお願いいたします。  合掌

 「生命誌」という概念を中村桂子氏が提唱して十年が経過しようとしています。
「生命誌の世界」(中村桂子著、NHK出版、H12年9月発刊)という本を読んでみると頷かされる所が多いのです。
 中村さんが提唱する理由を「現代社会は、論理の世界であり、科学が優先します。科学的に正しいかどうかが多くの価値判断の基準になっています。けれども困ったことに科学は神話のように,私たちの日常の世界をささえる世界観(物語)を与えてはくれません。(中略) 歴史の中で獲得してきた新しい知識は十分に生かして、しかし、生きる喜びを大切にするための世界観を作り上げたいと思うのです」と生命誌の提唱の概念を説明されています。
 生き物の1つとしてのヒトを知る「生命科学」は大いなる進展を遂げようとしています。しかし科学が、分析・還元・論理・客観を旗印にしているため、そこで解明される生命現象は、まるのままの生き物や「人間とは何にか」という日常の問いへの答えにつながっていかないもどかしさがあるのです。それは科学教育の限界とも言えるかもしれません。
 ある識者が「日本の初等教育の最大の欠点は哲学、宗教がないことだ」と指摘しています。では哲学・宗教がないとどんな違いが出るのでしょう?
 哲学・宗教が無い状態での課題は「たべなきゃ死ぬ」と言うことになります。食べるためにはどうすればよいか、を大事な問題としてそこに(一所)いのちを懸けて(懸命)生きて行く生き方になります。
 哲学・宗教があると「食べても死ぬ」という事実に、それでは人間にとって何が大事かと言うことになり、「人間に生まれた意味」、「生きる意味」,「死んだらどうなるのか」(仏教では『生死の一大事』と表現する)を考えるようになる生き方になるような違いが出てくるようです。
 私自身は無意識のうちに「食べなきゃ死ぬ」、何とか食べれるようにと突き動かされてきたように思います。仏教に出遇わなければ、哲学・宗教はひまのある者の戯言(たわごと)だ、世界の流れに遅れる、食いはぐれないように、日本の流れに遅れないようにと馬車馬の如くに疾走してわき目もふらず、走っていたでしょう、いや、現実は今も走っているのかもしれません。
 こんな生き方の人が運悪くガンになり末期に近づいて医師に「いい生活はしてきたけど、本当に生きたことがありません!」と愚痴に似た訴えをすることになるのでしょう。
 「いのちとは何か?」、それを推し進めると「自分とは何か?」にも関連してきます。
 人間に生まれたと言うことは一体何だ。一体人間とは何だ。今までの思想、宗教は人間とは何かと言うことを証明しようとしているのです。人間が宗教を証明するのではなく、人間を証明するのが宗教です。
 私とは何か、私は何処からきて何処に行くのか(生まれた意味,生きる意味)、宗教と言うのは神様、仏様がはっきりすると言うよりは自分と言うものの存在構造,自分の実態が根本から明らかになった、本当の自分に今、初めて出会った、気づいた、気づかされたという驚き、感動でしょう。
 いのちとは何か、宗教と何か、霊とは何か,ということをいろいろ考えたり議論する時、議論する自分が何かと言うことがいつのまに抜け落ちてしまっています。私とは無色透明の存在?。
 和田稠先生は「人間が本当に呼び覚まされる真理とは,向こうに掲げておいて、それを目指して進むのではない、真理は働きなのです。我々に呼びかけ、我々を問いつづけ、我々を言い当てつづけてくる働きをいうんですね。その生きて働く、働きに遇うことによって、初めて自分と言うものが知らされてくる。」と話されています。
 法話を聞いて法に照らされていく。自分と言うものが知らされる(私が理解したと言う枠の中のことではないので「遇う」という表現になっている)ことで生命現象としての「いのち」をも包み込み,生まれた意味,生きる意味をも気づかされて行くことになるのでしょう。生命科学を包容しつつ、なおかつ生きる喜び、生きる力(エネルギー)を培(つちか)う教え、それが仏教でしょう。
 仏教は多様な輝きを持ち、見る人に応じて色々な光を放ち、目覚めさせ、仏教だけが正しいと絶対化を主張しない教えです。

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