2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2544)

 ある教師が生徒に「人格を磨く事が大事、高い所からは遠い所や周囲がよりよく見えるように人格を磨き見識が高くならないと見えないものがある。人間として成長・成熟する事が大切」と教えたという。
 「『人を殺す』のでなく『人』として見えなくなった時に相手を殺すのである。人がお互いに人であると認めることが出来るためには、『人になる高み』に立ちつづける努力が必要である。そういう立場に立つ努力が失われてゆくと、人は人を人と思えなくなる。」という文章に出会った。
 マルチンブーバーは「我と汝」の著作の中で我々人間は「私―あなた」か「私―それ」の世界を生きているという。「私―それ」の世界とは、相手を物や道具に見立て便利の良い物、役に立ち物と見ていく見方である。私の周囲を自己中心的に役に立ち、便利の良い物とついつい見てしまいがちな私がある。相手を人と見ず、物と見ていないか。人を人と見えなくなる時、相手を殺す事もしかねない存在となる。
 日本の現代社会は上を目指す社会でいわばピラミッド型をした社会構造である、上に位置すれば経済的に社会的にも条件が外見上は良くなるようになっている。それ故にこのピラミッド社会では自分がどこに位置するかの競争である。頑張れ、努力せよ、明日こそ、希望に向かって、進歩、精進等で表現されるのはまさに上を目指す方向性においての事である。国際的に認知された日本人の勤勉さ(?)は仕事中毒と揶揄(やゆ)される。
 ピラミッド社会では自分の思いの実現する天を目指すが、頂点(天上界)にとどまる事が出来ず、必ず「天人崩れ」となって落ちてくる。そこでは独善的に周囲へは「こん畜生」「こん餓鬼は」と愚痴の悪臭を撒き散らす。相手を「畜生」「餓鬼」という時は自分も「畜生」「餓鬼」に落ち込んでいる。人を人とも思わないのである。
 宗教的な行事等の理由で土・日が休日となったという歴史をもつ欧米に比して、働き過ぎという外圧で週休2日が定着しようとしている無宗教の国(宗教を理解せず、科学的合理主義を信仰する)、日本では社会の雰囲気が違うようだ。
 仕事の上での立場と仕事を離れた一市民としての立場があまり区別できていない日本社会は「私-それ」を無意識のうちに意識した社会を作ってしまったのではないだろうか。地域社会では、一人一人が人格を待った対等の一市民である。建前としてはそうなんだけど、日本社会ではその意識が十分に育っていないように思われる。仕事の役、職業の立場が市民生活の中にまで影響を及ぼす事になる。
 「私―あなた」の関係は非常に親しい関係であり、人と人との関係である。ブーバー流にいえば「私」が「あなた」と呼ばれる経験・体験を通して「私-それ」の世界から「私―あなた」の世界に転ぜられるという。誰から「あなた」と呼ばれるのか?
 仏教では「如」なる世界から「汝、大いなる世界に来たれ」と呼ばれるのである。どうして分かるか?
 よき師、よき友を通して呼びかけに気づかされるのである。その呼びかけの「働き」に出遇って見れば、その「働き」はわが心の奥底と共鳴するものであった。そしてその「働き」は「如」なる世界と通じる世界であり、「如」なる世界から発せられたものであった。
 「如」なる世界に支えられ、通じる「いのちの仲間」としての気づき(自覚)に自然と「私―あなた」、人を人と見る関係へと導かれる。
 大いなるものと私たちの関係は大いなるものの前で横並びの、平等の関係である。大いなるものは我々を支配するのではなく我々の足下で私を存在有らしめ、我々を支えて止まないのである。
 それは時間・空間を越えたもの(無量寿・光で表現)として阿弥陀仏という。「汝、大いなる世界に来たれ、南無阿弥陀仏」、智慧有らしめたい、いのち有らしめたいと働きかけて止まないものとの出遇いにおいて「世間」を越えた、世間から区切りされた世界を持ちえるのである。そこに「人になる高み」が与えられ、人を人と見る視点が成立する。
註:「如」なる世界(大いなる世界)とは仏教聖典よると、色もなく、形もなく、言葉でも表現する事のできない世界という

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