3月のご案内(B.E.
Buddhist era 仏暦2544)
仏教の話では「願い」、「本願」という言葉は大事である。しかし,解りにくい言葉でもある。誰が何を、誰に願うのか,本来の願い(本願)とは、根本の願いとは。今回は「願い」について考えてみたい。
基本は仏が私(我々)に願っている。すると、仏とは何か、誰のことか、何で願いが出てくるのか、願っているという事がどうして分かるのか、分かった事に何か意味があるのか、私は頼みもしてないのにと次々に疑問が出てきます。
僧籍を持つ若い人が法話をして質疑応答の時間,聴衆の一人が話の内容を誤解して質問をした。私にも明らかに質問者の聞き違いと思われた。そこで僧侶は質問の返事として「そんな事は言っていません」と答えた。質問者と僧侶の間で誤解による応答がなされたが,一方はそう言った、他方はそうは言っていません。残念ながら、質問者の誤解が解ける終わり方が出来なかった。なぜ応答がうまくいかなかったか,私だったらどう答えたかを考えてみた。
質問者の誤解に対してはそんな風に受け取られましたか、私の意図したことはそうではなくこういうことですと一歩引いて、そこで詳しく,繰り返し説明をして解ってもらう努力をする,自分の誤解を招く言い方にいたらないところがあったと詫びるのが良いのではないかと思われた。(カウンセリグの方法に似ている面がある)
分かって頂くために自分の思い(正当性)を少し曲げてでも解っていただく為に努力を惜しまない。そこに「願い」に触れて育てられた者の姿勢が自ずとにじみ出るのである。よき師、よき友、そして気づいてみれば多くのお陰で「願い」の中で育てられたのである。それをいつのまにか私が学んだ,私が身に付けた、私が気づいたと私有化する、そして自分の正当性を自己主張する根性である。
仏教の言葉に我痴,我見という言葉がある。我痴とは智慧がない,知識はあるが智慧がない,小賢しい知恵はあるが深い智慧がない。我見とは自分の考え,見解に間違いがないと主張することとある。
仏の願いと言っても我々には解りにくい。子供にとって親の願いはわかりにくい、親になってみて初めて親の気持ち,願いが頷ける。 仏教から学ぼう,参考意見として聞いておこう,ちょっと良い所があれば取り入れようと理性的に向こうに仏教を置いて(対象化)分析して仏教を理解して行こうでは仏教は十分に解らない。
仏法のお手伝いの真似事をしてみて見える物がある。よき師,よき友の私に対する願いに気づく(気づかされる)事によって,我々は仏の願いに触れるのではないだろうか。よき師、よき友の願いは単なる願いではなく具体的なご苦労であり、ご配慮である。
自分の考えを通そうと仏の教えを避け,無視しようとする私に働きかけて止まない働きかけである。はたらきに気づいて見れば巧みに用意され,巧みに準備・配慮されていたことに感動するのです。
よき師のご苦労によってお育てを頂いた者には、お話を聞いてくれる人の聞き違いは私の至らなさによるのである。「そんな事は言っていません」では済まされない。
「願い」はどこかにあるのではない、私に直接し,私を動かすのである。知識として分析して把握できる「願い」ではなく,常に「今」、私を目覚めさせ、勇気付け、生きていく力、エネルギーを注いでくれる「はたらき」であると直観(体得,体認)される。
よき師の「願い」そしてその背後の宿されている仏のはたらきに触れる者は心の奥底からの共鳴・共感を持ち、いさぎよく自分の思いを翻し、仏の教えの如く生きて行きたい感動する。
「願い」を尋ねてみれば、まさに熟慮された、そして汲(く)めども尽きない井戸の水の如く無尽蔵と表現できる内容を秘めて,触れる者に宝の蔵に出会ったという感動と爽やかな潤い深い安らぎを与え、身体の奥底から何故かしら奮い立つ活力を与える不思議なはたらきであります。
仏の願い,はたらきに揺り動かされた者は苦悩する衆生に仏の願いをなんとしても分かって欲しいと願い、あらゆる手段・方法を駆使して分かってもらう努力を惜しまないのです。解らない者は知らんではなく,解ってもらうまで誤解されても無視されても嫌がられても縁あれば,解りやすくいろいろ工夫して伝えたい。そのためには苦労を厭いません、いやがりません,南無阿弥陀仏となる。(続く)
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