4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2544)

 権利意識,人権意識の高いアメリカでは訴訟社会という事もあり交通事故などで自分が悪かったというような謝る意味の発言はしては不利なるという話しを以前聞いたことがありますが、最近、アメリカに住む友人から毎月の案内文の感想に「先日、アメリカのテレビで、医療過誤を取り上げていましたが、医療過誤で死んだ患者の家族が「人間には間違いがあるが、病院が間違いを認めて謝罪してくれれば訴訟は起こさなかった」とコメントしていました。アメリカ社会はあまりにも訴訟が多くなったのは「謝罪」をしない社会になってしまったからで、「皆さん、なにかあればまず謝りましょう」という運動(どこかの知事さんが中心に)があるそうです。」というメールをいただいた。
 契約で成り立つ社会、色々な人種,文化のるつぼの中で自立・自己主張の尊ばれる社会では避けられない課題でしょう。それ故に孤独性を秘めた社会だから教会を中心にしたコミュニテイ―(宗教活動としての連帯)が尊重される雰囲気がまだ残っている(10数年前の経験と私の独断・偏見による)のでしょう。
 近代はすべてを物質に還元して捉える科学(科学主義)が大手をふって歩き,人間の心,精神性,人間が人間として生きることの意味が失われようとしています。あらゆるものを「物」と還元して捉えようとすると,人間も結局のところ物の集合体・運動体にすぎないと見えてくるのです。
 物質には意味がない(物に宿されている意味を見出す智慧がない)ので物としての人間の存在に意味を見出しにくいことになります。現代人は最後のところには意味が無いと感じているので,そのことは見ないようにしているのです。その行き着く先がニヒリズム、人生に意味がないのであればとりあえず自分の快楽を追及して生きるしかない。そこにエゴイズム?快楽主義という精神の頽廃(たいはい)の問題が起こってくる。(EBM;evidence based medicine もこの方向か? 欲望を満足させる医学でどうして悪いのかと発言する大学教授の存在)
 物質還元主義的な科学主義による教育の行き過ぎた(普遍的な宗教をも払拭した学校教育、宗教的は雰囲気の無くなった家庭、機能低下しているお寺)現代日本の文化状況の中で,無意識のうちに我痴(智慧がない)、我見(自分の考えは間違いがないと主張してとらわれる)で自分を傷つけ他人をも傷つけ、ギスギスした潤いのない現代社会で忙しい大変だと動き回っていることになっています。
 そのような私達に智慧有らしめたい,温かい血の通った人間たらしめたい、やすらぎを届けたいと目覚めの世界から働きかけられているのです。具体的にはよき師,よき友のはたらきの上に仏のはたらきを見ることのできる世界でしょう。
 智慧が無く行く方向性も定まらず迷走(六道輪廻)する私という存在があればこそ仏の世界からの働きかけがあるのであります。
 大いなる世界(知性の把握を超えたもの)からのはたらきに気づかされてみれば私を取りまく周囲の状況,事物,過去のことにも意味が秘められていた、無駄な物がなかったと感動するのです。
 はたきの躍動する場を「浄土」というのでしょう。この世でその場に身を置くとき対々(たいだい、相対比較の世界)を超えた絶対なる物に触れる事ができるのです。
 絶対なるものは相対なるものにはたらきかけ、相対の中に自己を届けて自己実現せん(智慧と慈悲の存在)とする(西田幾多郎)。
 小賢しい知恵に振り回されて流転を繰り返している智慧なき者(私)に智慧を届けたい、いのちなき者にいのち有らしめたい,との願いであります、そのはたらきを直観(体得、体認)する者はこの世(世間)を、この世を超えた心(出世間、仏の心)で生きる勇気を賜り、仏のいのちの歴史の最先端の「今」に立たされた自覚・感動となるのです、同時に先人のご苦労、ご配慮に南無阿弥陀仏と感謝せずにはおれないのです。

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