5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2544)

 自分の所属する病院の悪口を言われたり,批判を頂くとき、責任者としては否応無く自分への批判・忠告として心にずっしりと響く。よくストレス潰瘍にならずに今日まで来れたものである。
 世間で雑談をする時、自分の身に直接関係ない話題だと気楽なものである、傍観者として見ることができるから。しかし、傍観者としての話は、あとから見ると実りが無い言うか、どうでも良い事が多い。必然的に傍観者としての三面記事的、週刊誌的な話題には関わらないようになる。
 責任者や当事者になると言う事は他人事で済まされないのである。仏法を聞き、学ぶ時もこの視点が大事である。仏法の師から「仏教,教えを聞くときは常に自分の問題として聞いていく姿勢が大事である。」と指導していただいた。仏道とは内観の一道と言われる所以であろう。
 学生時代、仏教青年会の総務として時にいやいやながら仕事をしていたことが恥ずかしく思い出されると同時に自分と言うものを見つめ、反省させられる良い機会であった思う。
 自分を問題とすると言う事は出来たら避けたいと言う気持ちを多くの人は持っていると思う。平成13年の新成人に聞くというテレビ番組の中で21世紀には「うそ発見器が普及する」と言う事に多くの若者は好ましくないという反応を示した。自分の内側はできれば見たくない、触って欲しくないのである。人間の知恵(世間的な知恵、仏教の智慧と区別して)は重たい課題は避ける、よける、逃げるv先送りしたいという志向性を持っていると思われる。
 つい最近、青少年や17歳が色々問題を起こしていた時マスコミ等で「なぜ人を殺してはいけないのか」という課題が取り上げられていた時,その問いになぜか違和感を抱いていた。その理由が最近見えてきた。
 この課題で自分が問題になっていない、ということが問題なのである。課題が自分の問題でなく他人事になっていると思われるのである。この課題への田畑、個人の思いは歎異抄13章に「業縁によってはいかなる振る舞いもする可能性がある」と言う指摘がなされている事を本当だと思う。そして「相手の人を物や道具に見るとき、殺す事もあるかもしれない。相手を人間と見るときは殺さないであろう。いのち(無量寿)の仲間は殺しあわない」と言う言葉が頷けるのである。相手を物や道具でなく人間として見る視点が大事である。
 マルチン・ブーバーは「我と汝」の本の中で「私-それ」の世界か「私―あなた」の世界への転換を指摘している。それには大きな世界から「あなた」と呼ばれていることがはっきりする事が大切だ言われている。南無阿弥陀仏(汝、小さな殻を出でておおきな世界に来たれ)とはまさにこのことであろう。
 相手を「あなた」、人間として見る視点を持ちつづけることが大事である。これは仏教の智慧によって賜る視点ではないかと思う。
 仏教が難しいという感想を聞くことが多いが、その一つの原因は仏教の知識を増やすような聞き方になっていることである。自称(言わなくても自分で思っている)知識人に多い聞き方である。
 仏法にお育てを頂くためには、教えられる者として「そのこと(話の内容)は私にとってどういう意味があるのか」という自問が大切なのである。自分を忘れて話しを聞く、その結果として話しの枝葉末節が気になる、とらわれるという事が仏法を分からなくしている原因である事が多い。自分を問題とすると言う事は非常に難しいようである。
 せっかく仏法に取り組みながら、仏法に徹底しない人の発言をいろいろ聞いてみる中で気づく事は自分を問題とすることを“するり”と避ける、逃げていることである(自分をどこか安全地帯において問題とせず、隠している)。
 仏法、聞き難しである。南無阿弥陀仏

この度(4月)、2冊の本を出版して頂きました。(田畑正久)
1.「老病死の現場から」(聞法ブックス7) .法蔵館、400円
 (以前、八代市で講演して個人的に小冊子にしていたものです)
2.「生と死を見つめて」-医療と仏教が共にできること-伝道ブックス42 東本願寺出版部、250円
 (以前月刊誌「同胞」に掲載したものです)

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