6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2544)

 養老猛氏が最近の大学生は安易に「それが理解できません,もう少し分かりやすく説明してください」と質問する。「説明してくれれば解るという傲慢さの中にいることを知らない」と講演の中で言われていたことがありました。
 ある人が「現代人である私に、もう少し現代の言葉で解りやすいように仏教の話していただけませんか」と質問というかお願いをしたら、念仏者の企業人k氏は「私は仏様の世界を問題にして話をしているのですが、今の質問は、私も若いころ同じようなことを考えていたことがありましたけども、人間である自分に仏様の世界が当然解るはずだと思っている質問です。こういう質問をすることは大変驕慢なことであります」と言われた。
 またある人が「宗教、特に仏教では自分の学んだ仏の理想像を描いて、一生懸命それに近づこうと努力していれば、いつかはその理想に到達できるものでしょうね」と質問すると即座に、「それではとんでもないところにいくでしょうね」と仏教の講師が言われました。
 仏教の解らない者が仏教への方向性を決めたり,仏教を分かる手段・方法を定めたりして、仏教は自分の理解の範囲の中にあると勝手に決め込んで大丈夫であろうか。仏教を分かるためには仏教の方が方法手段を規定する(我々に求める)と考えたほうが適切であると思われる。
 テニスがうまくなりたいと思って剣道の竹刀の素振りを一生懸命にしてもテニスは上手にはならないと同じような事である。テニスが上手くなる方法は私が勝手に決め付けるのではなくテニスというスポーツがテニスにあった練習方法(テニスを上達した人が体得した練習方法)を我々に求めるのである。
 釈尊が説いた法は8万4千あるという、釈尊を仏たらしめた法を体解、体得して迷える衆生の状態・器量に応じて法が説かれているのである。私の器量に会った法が大切なのである。いかにすばらしい教えであっても自分の力量に適わない自分に不可能な道であれば宝の持ち腐れである。最新の電気電子機器を十分に使いこなしているかという事を考えればよく分かる。自分の分際を超えた立派な教えを前にして素通りするか消化不良でかえって助かるところを分からない難しいといって苦しみ悩むことになる。時代状況、社会状況を踏まえた上で自分の分際を知る(知らされる)ということが大切である。
 自分で自分のことを知ろうとしても限界がある。自分の理知を超えた仏教の教えに照らされてみて自分の姿に気づくのである。自分が眠たくなって自分で自分を目覚めさせようとして自分で自分の膝をつねっても限界がある。一番良い方法は目覚めている人に注意してもらうのが確実である。
 私を丸ごと照らし出し、私のことをいいあてて、そうだと頷かざるを得ない光(智慧)に出遇う。私を超えた外からの視点である。
 はからい(浄土真宗では自力という)を超えた世界への目覚めを直観(体認・体得)した者には通じあう世界があるように思われる。禅宗、キリスト教、その他普遍性のある教えに育てられた人に共通する謙虚さ、賢明さ、親切さ、厳しさ、包容力、温かさである。
 私にとってはこの教えの内容が普遍性を持ち、私の現実の中で「実」であったと頷かされる教え(真実の教え)、私を照らし育て,私のかたくなな殻を照らし破ってくれる教え。そしておおきな世界(仏の世界)のあることを気づかせてくれた教え。振り返ってみればよき師、よき友を恵まれ,多くのご配慮,ご苦労を通して私まで届けられた教えであった、南無阿弥陀仏。
 賜りたる智慧の眼によって見出される意味(物事に宿されている意味)の世界、やり直しの出来ない人生でも智慧の眼での人生の見直しはできるのである。そこに見出される豊かなる意味・味わいの世界(ある念仏者は無駄なものは一つも無かったと感動された)。
 私にとってはこの教えなしには大きな世界への出遇いは無かったでしょう。しかし、それだからと言ってよき師を通していただいた教えの絶対性を主張するわけではありません。(頂いた教えの絶対性、真実性を主張し始めるとそれは宗教でない世間の事になってしまうように思われます。一人一人のご縁により頷け、自覚に導かれる教えとの出遇いが大切と思われる)
「自分が教えられ、生かされ、生きる力を頂いている教えを、私はこういうふうに味わっています」という形(讃嘆)で伝わり、広まるのが仏教が正しく自然に伝わる形ではないかと思われます。浄土真宗ではよき師・友の讃嘆を聴聞する事を大事にしています。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.