7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2544)

 最近、病院で入院患者さんの苦情を聞く中で、患者さんから「精神科を受診しているというだけで、長年の友達関係が壊れるのです、年賀状が来なくなるのです、就職が出来なくなるのです。」と訴えられた。病院の中では眠れない、頭痛がする、不安を訴える等で精神科を受診することは特別な事ではない普段の一風景であるのだが。
 医療に携わっていると、種々の病気(精神科疾患に限らず)を縁として患者さんの周囲に引き起こされる差別を含む色々な現代社会の現象を見たり聞いたりする機会が多い。また、その患者に更に、「『世間』は先生の考えるようなもの(正しい事が正しいといえるような理想的な社会)ではありません。病院でも「世間」をよく見て、世間の眼を気にした配慮をして下さい」と直訴された。いったい「世間」とは何だろうか。
 「世間」とは広辞苑には・有情の生活する境界、・天地の間、あたり一帯、・人の世、人生、・世の中の人々、同じ社会を形成する人々、等記載されている。
 「世間」という実態を我々は把握できるだろうか。種々の機関による「世間と言うものの意識調査」というものが発表される事があるが、見たり、聞いたり、触ったり、数字や形では客観的に表わせない。しかし、確実に「世間」は存在すると言える。各人が自分の描く「世間」を相手に、世間体を気にして、世間的な善悪、勝ち負け,それに連動して自分の損得の思惑が交錯しあい、社会的経済的地位の上,世間的な善,勝ちのサイドに位置するよう努力している。 世間という虚像に振り回されながら、世間の不合理・不実を感じながらも「世間」から外れることを恐れ、結果として自分を傷つけ、他人をも傷つけあうことになっている。きれい事や建前優先の「世間」を相手にし、それを考え方のモノサシにする時、人間の弱さ、醜さ等の「裸の人間性」を併せ持つ、夫婦、親子、兄弟、友達等の関係が危うくてもろいものになる。
 新たな欲望を刺激し煽(あお)り、日々、欲望を更新させることで存続する消費社会、景気という掴(つか)み所の無いものに左右される経済活動、すべての価値がお金に換算され、金儲けのうまい人間だけが大きな顔をして生き残るような社会。これこそ市場原理、グロバリゼーション、効率化とか自己責任という言葉で言われている事の実態の現代社会である。そして日本の個々の家族が、そして地域社会がこれらの過酷な世界の流れの中で翻弄(ほんろう)されている。
 裸の人間性(弱さ,病気、醜さ等)の露出を許容しない建前優先の「世間」(影の部分では建前と本音のひずみで起こるストレスのガス抜きはなされている)。効率,能力を尊重する社会・経済活動の中で、素っ裸で立たされる人間が損得、銭勘定抜きで許容され、庇護(ひご)される場所がどこかに残されているのだろうか。いや、能力の有無,有用性の有無に関わらず,人間がそこに存在しているということだけで絶対的に尊重される場所がなくなろうとしている。近所付き合いが希薄化した地域社会,便利で快適さはかなり実現したが生活共同体・コミュニテイとしての成熟度はどうでしょうか。家庭こそ最後の砦(とりで)であってほしいのですが。核家族化した家族・家庭にそんな場を期待できるのだろうか。仏壇は形としては家庭に開く浄土の門であるという,浄土の門が家庭に開かれている。浄土の風が家庭を吹き抜けているだろうか?
 「浄土」とは「世間」と対峙すると共に「世間」をも包み込んだ場である。「世間」を生きる我々一人一人に「汝,小さな殻(自我,我見,世間----)を出でて、おおきな世界(仏の世界、浄土----)に来たれ、南無阿弥陀仏。」と呼びかけ、働きかけて止まない世間を超えた世界(場)である。人間がそこに存在しているということだけで絶対的に尊重され、摂取され,生かされ人間性を回復(人間が人間らしく生きる)すると同時になおかつ人間性を超える(成長,成熟して仏となる)場である。「浄土」とは仏の働き(智慧あらしめた、いのちあらしめたい)の及ぶ「場」である。「本当に浄土はあるのか?」と言う質問に対する答えは「浄土は有るとか無いとかを超えて存在する」である。
 「世間」はあると確信しながら「浄土」の存在を確信できない我々。仏教で「信とは聞見する所を必受して無疑なることなり」という(十住毘婆沙論・淨地品)。「無疑」と「不疑」は大きく異なる。不疑は疑わないである、疑わず「信じ込む」とか「信頼する」と言う事だ。無疑とは疑いを出し質問する。疑いを出し尽くして疑い無しとなったのである。浄土真宗では出発点において「信・信心」を要求しないのです。信は目覚め,自覚であり到達点であるからです。そして信は更に純化されていく。「世間」も確かにある。同時に「浄土」もあるなしを超えてある、それは世間を包み込んで(摂取不捨)存在する。そして我々にいきいきと働きかけてあるのだ。

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