8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2544)

 仏教を修得する方法として普通、権威のあるお経(教え)を信じて(信)、その中で勧められている修行(行)を努力し実行する、継続した取り組みの結果として悟り(証)に到り届くと考えられています。その過程は「教・信・行・証」の順番になります。そして悟りに達した人は人格円満、善人で生活態度もすばらしいだろうと考えます。もしその人が社会的な問題でも引き起こすとその人の関係する宗教は信用できないということになるでしょう。ここで想定されていることは求道する人が「仏の証明者」(仏の悟りを証明する人)になるという考えです。
 悟り(証)の程度はその人の信の深さ、行の質、量、深さ、すなわちその人の能力・努力・精進の程度に比例すると考えられているのです。この考えでは証(悟り、信心)には個人の能力や精進の程度に応じたいろいろの差異が出てくるのは当然ということになります。師弟で信心が異なるということがあるわけです。
 歎異抄の後序に「法然聖人と善信(親鸞さんが法然上人の弟子の時の名前)の信心は同じか、異なるか」という問題が取り上げられています。前記の考えの延長線上では異なるということになるでしょう。法然上人の弟子の間での議論ではどうしても結論が出ず、師〔法然上人〕に判断を仰いでいます。そして師の答えは「同じ」であるということでした。
 浄土教の教えによると信心を頂く過程は「教・行・信・証」と展開するのです。すなわち南無阿弥陀仏(汝、小さな殻《世間》を出て、大きな世界《仏の世界》に来たれ、本願の名号)の教え(教)の働き(行)(智慧あらしめたい、いのちあらしめたいというはたらき)が私に到り届いて私が疑いなく受け取れた(信:疑って疑って質問をして答えを得てうなずき、疑いがなく明らかになった様、智慧をいただいた)。そして私も信心念仏する(証、信心)と言うふうに展開するわけです。
 浄土教では教え、働き、智慧、信心、念仏はすべて仏の領域(責任分野)の事柄です。私の個人的な能力、努力、精進に依らないのです。仏の働き(他力)を私が素直に疑いなし(疑わないではなく、疑った結果として疑いなしとなること)と受け取るかどうかということです。
 他力の信までにいろいろの段階があるのですが、聞き開いていって他力の信となれば、人間の上に成立する心でありながらそれは如来の心です、それを南無阿弥陀仏といい、皆同じとなるのです。
 私たちは仏の働き(智慧)を疑って自分の知識・経験の方が確かだと思い、なおかつ前者の思考過程の方に馴染みがあるものだから、後者(浄土教)の考え方、教えが受け取れないのです。
 前者のように求道しながら佛を証明するということになると仏教を頂いた者が「賢善精進の相」を示しているかということが問われるのです。そういう姿を示せないということは仏(覚者)でないということを示すことになるわけです。
 仏であることの証明を考える時、仏教辞書には仏(仏陀)とは自覚覚他、覚行窮満(ぐうまん)と出ています〔自覚(目覚める)、覚他(他を目覚めさせる)覚行(目覚めさせるはたらき)窮満(欠け目ない、まっとうできている)〕。自覚覚他の働きのできる存在、そしてなおかつ賢善精進の相を示す存在を仏ということができると思われる。しかし、仏ということをどう〔誰が、どうして〕証明するかということが問題になります。
 浄土教は仏を証明する道ではなく、教化を受ける道ということができるのです。仏を証明しようという方向と教化を受けて信心を頂く方向はまったく違うのです。
 仏は自覚覚他ということで仏自身を証明なされるのです。仏は教化ということを通して「なるほどあなたは仏である」ということを衆生に納得せしめるという形で仏は仏を証明されるのです。仏は衆生を教化して悟らしめるという形で仏自身を証明されるのです。そして私は仏の教化を蒙って、「なるほど仏でおわしました、南無阿弥陀仏」と頷くことが「信ずる」ということになるです。仏の教化にあずからないで仏を信じるなどということはありえないのです。
 私たちの理知分別〔聖道門的思考〕は認知できない仏を否定しながら、仏の存在を証明しようという矛盾した問題をはじめから抱え込んでいるのです〔一部、平野修先生より引用〕

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