9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2544)

「汝、小さな殻を出て、大きな世界に来たれ」という言葉はよき師、細川巌先生の「南無阿弥陀仏」すなわち阿弥陀仏の本願のこころを我々にわかりやすく言い換えてくれた言葉でありました。
 いつか本願寺のカレンダーの標語に「善か、悪かは人間のものさし。嘘(偽)か、真(ほんと)か、仏のものさし」という言葉がありました。我々は善・悪、損・得、勝ち・負けの物差しで、いろいろと計り、小賢しい頭で思案し、世間という小さな殻の中で明け暮れしております。
 先日、親戚の者からが「伯母さんが元気なってよかったね」といわれた時、返事に戸惑いました。「病気が悪で、健康が善」という世間的尺度で振り回されようとしている現実が見えていて、良いも悪いもない現前の事実に対処するしかないと思っていたからであります。50歳を過ぎてあらためて周囲を見渡すと兄弟、従兄弟をはじめとするどの家庭にも病気に象徴される「老・病・死」の課題を抱えてない家族はいないのであります。
 この世間で生活をしているといつのまにか常なるもの(変わらない安定、健康、価値等)、楽(愉しく生き生きした、若々しい生活),我(しっかりした私、物事に動じない精神を持つ私)、浄(清く正しく真実に満ちた状態)なるものを追い求め、やればできるのだという根性で生きていることになっています。そしてそれが実現できない時は自分はちゃんとやっているのだが、外の種々の条件が悪いと非難し、愚痴をいう。その一方で努力がたりない他人をだめな奴と内心、馬鹿にしがちであります。
 仏教は「常楽我浄」はこの世、世間にはない、仏の世界(浄土)においてこそ「常楽我浄」が成立するのであるという言葉が身にしみます。(三法印;あらゆる現象は変化してやまない、諸行無常、いかなる存在も不変の本質を有しない、諸法無我、迷妄の消えた悟りの境地は静やかな安らぎである、涅槃寂静、の三つをいう。これに一切皆苦を加えて四法印という。岩波仏教辞典より)
 この世にないものをあるはずだと追い求めてやまない我々の日々の活動。ないからといって求めないわけにはいかない現実社会。ないものを求めているので手に入るはずはないこの現実社会では結果として「自損損他」となっていくのです。
 求めても求めても得ることの出来ない自分をだめな存在と内心気づき、自分には甘い物差しを使って計るがやはり、納得できない自分の状態を見て劣等感におちいり、時にうつ状態になる(自損)。
 一方、他人には厳しい物差しを使って計り、思うように動いてくれないと自分の周囲の人間が「悪い」と馬鹿にする(損他)。そして自分はちゃんとやっているのだが周囲の人や物の条件が恵まれていないと責任を外に転嫁するのです。
 そんな生き方、すなわち嘘を本当にして生きようとしている我々のあり方を邪見・驕慢という。その結果として嘘は嘘だから認められない、許さない、成就しないことになるのです。それは自然の成り行きであります。
 我々は本当でない、邪見・驕慢に立って生きようとしているのです。その上で「信じられない、そんな馬鹿な話があるか」と言ってしまいます。我々の根っこは邪見・驕慢であるので、その上に何かを作り上げようとしていますが−−−−。 それを誰かが壊すわけでもなし、押さえつけてつぶそうとするわけでもないのですが、嘘は嘘の故に成立しないという、そういう翻(ひるがえ)りが起こるわけです。こういう翻りの構造を本願(仏のはたらき、根本の願い、本来の願い)ということで表しているのです。
 私が本来の私であることことを失わせる(流転、引きずりまわされ、振りまわされる)もの、雑縁乱動する外の現実に呼応して私を失わせる私の中にある煩悩を照らし出すのが仏法であります。
「大きな世界に来たれ」とは仏法をよりどころとせよ、仏の教えに照らされていけということであり、具体的には私の主体性を失わせるような私の中のある煩悩を常に照らされ直されてゆく歩みをすると言うことでしょう。
 照らし育てられ照らし破られて仏のいのちを頂いて(仏の願いを我が願いとして)確かな拠り所と方向性を持つ時、人生において出会うどのような現実もそれが私を教え育ててくれる縁となるのです

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