10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2544)

 卒業して3年目の医師から卒業して約30年を経過しようとしている私に「30年間でどの時期が一番よかったですか?」と質問された。即座に答えを窮した。研修医からいろいろの時期を経験してきたがどの時期が一番-----?-----どの時期でも楽しいこともあり苦しいこともあり、相半ばするという感じであったからです。 
 考えてみれば仕事の場が転々としてその職場、職場で色々あったがそこそこで何とか処してきた。自分では足りないところもあったと反省されるところもあり十分に満足であったとはいえないが、過去は過ぎ去ったことで今ではどうでもいい感じで思えたのです。時に過去の写真をみてこんな時期もあったのかと甘い思いになることもないではないが、すでに過去である。
 私にとっては「今」が一番肝腎であり、そして今後の見通しが最重要であり気がかりです。仏法の師より以前、「今の時代は5年先、10年先を見通すことが難しい時代になった」とお聞きしたことがある。流れに遅れず準備して内部の調整をしながら地域から期待された病院としての使命を果たして行かなければならない。そんなことを考えながら、いつの時期が善かった悪かったという発想はしてない自分に気づかされました。
 現実の仕事の現場では色々と難問があり頭が痛くなりそうであります。次から次へと課題は押し寄せ積み重なっていく、まさに雑縁(ぞうえん)乱動である。それに触発されて我が煩悩は素早く反応する、ほっておけば次から次へとよからぬことを考える、取り越し苦労で振り回されている。そうすると過去の事まで思い出されて持ち越し苦労で悩む。そんな現実の自分の姿を照らし出し見せてくれるのが光明(智慧、光明無量)である。自分の現実が照らし出される(振り回されることへのブレーキとなる)までの時間、間隔が問題である。仏法のお育てを頂くにしたがってその時間は短くなるように思われる。
 強風に煽られた波浪の中、小船に乗って揺り動かされてながらも心を落ち着けんと虚しく試みるのであります。時に神仏に波風が立たない様に祈りたくもあります。神仏にいのるような小細工で通じるような世間ではありません。「人生苦なり」とはお釈迦様のそんな現実への実感であったのでありましょう。
 大学卒業後の30年の過去を振り返るとき、何が残っているか。世間的には経験だ、思い出だ等色々あるかもしれないが、あっという間に過ぎてしまった。仏の智慧の目でこれらの事は空過、流転と言い当てていることであろう。
 そんな中を一本貫くものがある。仏法へのご縁であった。学生時代、卒業して駆け出しのころ、研究室のころ、医師として臨床に励んでいたころ、そして今、仏法への細いようで太い、頼もしいご縁で繋がっていた。それは、良き師、よき友のご配慮、ご苦労であり、それに呼応するかの如く、おのずと求めずにおれない、聞かずに居れないという心が出てきたことであった、まさに仏のはたらきであったのでしょう。
 「教行信証」(親鸞著)の総序に「------ああ、弘誓(ぐぜい)の強縁(ごうえん)は多生にも遇い難く、真実の浄信は億劫にも得がたし、たまたま行信を獲ば遠く宿縁を喜べ------」と嘆じられています。
 仏法の教化を蒙る時、よき師を通し、親鸞聖人、法然上人、七高僧、釈尊と連綿と連なる深い歴史観を賜ります。そしてその歴史の最先端を今、私があゆませていただいています。
 最先端を今、ここで歩むとは決して時めく[目立つ、有名になる、ちやほやされる]ことではなく、赤色は赤色に、青色は青色に、病人は病人に、寝たきりに人は寝たきりの人としてその人らしい輝きを発揮することによって仏の徳を実現するという使命をいただいているのでしょう。
 歎異抄の一節(第一章)「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんと思いたつ心の起こる時、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」の「念仏申さんと思いたつ心の起こる時」の今、今という時を受け止め、今、ここを大切に念仏して生ききるとき、過去は評価や反省の対象を超えて、今日の私をここにあらしめた「ご縁」であった、「ご恩」であったと素直に頷かせられるのであります。

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