11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2544)

 現実の世間で生活をしている我々は人間として生まれた意味、生きる意味、死んだらどうなるのか、等を考えるより今の生活を如何にして安心(あんしん)して暮らせるか、仕事を順調に運営してさらに発展させ、経済的に、社会的に、家庭的に、健康的に良い状態を確保して-------等を考えるのに追われています。テロだ、タリバンとの戦いだといっても一抹の不安を否応なしに感じるが、差し迫っての当事者ではなさそうなので対象化して眺めていると言う事実があります。
 (話は変わりますがテロ、戦争等の戦いを普遍性のある宗教が正当化するとは考えられません。中東地域の研究者・評論家・Watcherである平山氏が「中東で歴史上、宗教が原因の戦争・闘争は一度も無かった。紛争の原因は利権争い、資源・領土争い。権力闘争等が原因であった」という言葉が印象的であった。)
現実には降りかかる火の粉(世間生活での課題)を振り払うのに精一杯であります。そして少しでも明日こそ希望がかなえるぞ、将来に進展があるぞと思いながら日々の生活をしているのであります。そして時間はどんどん過ぎて行きます。
 暗い事象には出来るだけ目をつぶり、希望や期待を次から次へと連発していく、かなわない希望や期待は次なる期待や希望に置き換え、かなわなかった事実を軽いものに考え自分を見つめる機会にすることなく楽天的に前ばかり見て足元を見ないのです。
 (ある病院職員が「あれもします」、「これを予定しています」、と予定や可能性を次から次に言うので様子をみていたが、実績の報告が無い。数ヶ月してそのことを聞くとまた新たな次なる予定や可能性を羅列する。結果としてその人の言葉が軽いものだと評価を下げることになる。当人は実際やってみれば否応なしに必ず現実にぶっつかり自分の本当の姿に気づかざるを得ないはずなのに。現実を見ることなく限り無く夢、幻を追いかけることになり、虚しい約束手形を出し続けることになる。空過・流転とまさにこのようなことを言い当ててのことであろうと頷かされた。いやな出来事、右か左かの決断を迫られる現実、あいまいさを許さない課題、傍観者であることを許さない現実こそ貴重なのだと気づかされました。)
 仕事の上でいったん予定していたことが破綻すると困惑して修復に悪戦苦闘します。いったん修復して小康状態を得て順風に見えるような時もあるが必ず次の新たの課題が否応無く迫ってきます。
 先日ある医療施設を経営する知人が職場でお荷物になる職員がいて何とかやめさせたら、また次なるお荷物の職員が出てきたと嘆いていまして、相対的な世間と言うことかと気づかされ、なるほどと頷いたことでした。
 ハイデッカーは非本来性(空談・好奇心・曖昧性)を生きていたものが本来性(沈黙、内省、決意性)に否応無く、連れ戻されるのであると指摘しています。
 仏教では「常楽我浄」なき人生に「常楽我浄」という幻想を追い求める結果の必然の成り行きだと、そしてそのことを流転・空過と厳しく教えてくれています。
 一休さんの歌に『釈迦と言う いたずら者が あらわれて よろずの者を 惑わしにけり』があるそうです。
 私の日常性(世間生活)の中で順調に行っているつかの間の幸せ(小金もたまった、世間での評価も何とか得た、衣食住もそこそこ不自由しなくなった)を「それは迷いだ」「それは幻だ」「煩悩の満足だ」「流転だ、空過になる」と指摘して惑わすのであります。時に「要らぬお世話だ」、「ほって置いてくれ」、「黙っておれ」と言いたくなる気持ちが良く分ります。
 日本人は「頑張ります」「努力します」「精進します」「計画しています」「予定しています」という前向きな姿勢を示す言葉に弱いのです。その心根のところに問題がある(やれば出来るという傲慢さ。前進・上を目指すことは無条件に善であるという我見・邪見。今、という時が明日のための通過点になって「今」「ここ」の大切さが見えない。)ことにはなかなか気づきません。

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