12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2544)

 インドの釈尊、龍樹、天親、中国の曇鸞、道綽、善導、日本の源信、法然上人、親鸞聖人と連なる浄土門は「教化を蒙(こうむ)る道」であります。
 教化をこうむるとは確固たる私(我)があって知識を学ぶというのではなく、「教え」は、「教えて-----せしめる」と言う使役の言葉であり、私が教えで展開させられる可能性を秘めているという意味を持ちます。
 「教え」が辞書や本に書かれていてもそれが人に働いて人を展開せしめないことには「教え」とはならなくて単なる文字の羅列であります。薬の効能書きがいくらあっても薬が具体的に作用しなければ薬にならないようなものです。
 「化する」と言う言葉には今までとは質の異なるものに変化・転回するという意味がこめられていると思います。これが非常に重要な点です。
 仏教の知識を多く身に付け博学と人から言われても、「自覚」、「目覚める」という展開がなければ仏教・仏道になりません。
 「教化を蒙る」とは、教えを受けて私が質的な転回をせしめられるのです。すなわち、教化を受けて世間を生きる場とする存在から浄土を生きる場とする存在へと展開せしめられるのです。
 世間と浄土は本来深い係わり合いのなかにあるのだけれども我々にはなかなかわからないのであります。「浄土とは有るとか無いとかを超えてある」と僧をして言わしめた次元を異にした世界です。仏の世界(浄土)を我々に知らしめるのが仏教であります。浄土は世間の世界を包み込み、かつ世間を縁の下の力持ちみたいにカゲから支えている世界であります。
 仏教の教えに触れると言うことは、働きに触れると言うことです。熱した熱い金属棒に手で触れると「熱い」と手をすぐに離します。客観的に手に持って眺めて分析して何度の熱さだと分析的に知識として理解するわけではありません。
 法話を聞き、内容が自分と直接どう関わるのかを考え、念仏をするという実践を通して働きに触れることになり、感得せしめられるのです。
 我々は自分が考え、自分が努力して、自分が頑張らなくてはという発想が身に染みつき自我の思いを離せないのです。仏の働きの大きさを疑っているというか仏のはたらきがはっきりとわからない、感じとれないからでしょう。それ故に仏道を生きる良き師・友(そのご配慮・ご苦労)との出会いが大事だという事になります。
 「教化を蒙る」という立場に立つという姿勢が出来るまでがまさに難行なのです。私たちは外へ外へと目(好奇心、科学的な眼)を向けることは熱心ですが自分のうちへうちへと目を向けることは出来にくいものなのです。
 もう少し細やかに言えば「教えを蒙る」と「教化を蒙る」の違いが有るようです。教えを頂きながら何時の間にか、頂いた教えを一歩一歩自分で歩いて行き、良い心よい行いを実行して行かなければという世界に入り込んで行きやすいのです。それだと「百里の道も一歩から」の諺の如く仏道の道が百里あるとすると「教えを蒙る」とはその第一歩を歩き始めたということでしょう。仏教の教えを蒙ったかも知れないが仏教の知識である限りそれは迷いの中の一歩で迷いを越えてはいません。ゴールは遙か彼方であり、かつその一歩が仏の悟り・救いにたどり着くという保証は全くありません。
「教化を蒙る」とはまさに自力無効の「凡夫の自覚」に立つということでしょう。
「教化を蒙る」とは仏道の里程の九割以上成就され最後の締めくくりの仕上げをする道に不思議にも立たされた、恵まれていたという思いであります。
 我々があれもしなければこれもしなければと思っていたことを仏が我々に代わってすでに成し遂げてくれていた。それがうなずけ受けとれるかどうかです。気づかされてみれば自力のあがきの果てに仏の世界がすでに恵まれていたと感動させられるのです。
 私が浄土の姿(相)を良き師・友、そして先輩方の歩みを通して観察させてもらい教えられ、まさに教化されるのです。
 仏の智慧に照らされて見れば、仏(法蔵菩薩)が我見・邪見で流転に流転を重ね、空過に空過を繰り返している私を悲しみ痛むからこそ、願いを起こされ、浄土を建立されたのです。そして浄土を生きる存在になって欲しい(仏に依れ)と願われているのであります。
 南無阿弥陀仏(仏の世界に来たれ、帰れ)こそ菩薩(法蔵)の長年のご苦労によって考えだされた名(名号)。迷える衆生(私)のために我々に認知できる姿をとって現われ、そして衆生が憶念、念仏することを願われているのです。
 自分の思いに捕らわれ自分で勝手に流転・空過におちいり迷い苦しみの悪循環に入ってしまっていると仏は言い当てているのですが、なかなかしぶとい私であります。南無阿弥陀仏

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