2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2545)

 いのちの再生、これは生きている存在の必然の過程なのかもしれません。我々の身体も無意識のところで構成成分の入れ替わりがミクロの世界で生滅を繰り返しながらなされています。
 朝から夕方まで一生懸命に汗を流して働いた者には、風呂に入り、食事をし、ぐっすり眠ることが、次の日の元気となります。まさに意識の休息こそが活力の再生へとつながっているのです。
 都会では24時間営業と言う経済活動が効率・収率を優先して為されるようになっています。人間の活動としては不自然さを感じざるをえません。
 我々の意識は科学的な思考にどっぷり浸かっていますから、色々な事象をみて客観的な事実や今までの経験で得た物(すべて過去のこと)でイメージ(自己像、世界観、人生観)を構築しています。
 本来の「今」という時は、決して2度とない時なのですが、現象面で過去と同じように見えることが多い訳です。毎日の活動の9割以上が前日の内容の繰り返しだということを聞いたことがあります。我々の科学的な眼は再現可能な事象を確実な物として根拠にする傾向が有ります。そんな意識と眼で見る日常性は多くのことが同じことの繰り返しと見えるのでしょう。
 マンネリ化こそが我々の日々の活動で生きることの新鮮さ、生きる意欲をなくすものの一つとなっているのです。 意味を見出すことの出来ない者にとっては同じことの繰り返し、マンネリ化が生活を単調化し、退屈させるのです。それ故に、我々は何か面白いことはないかと好奇心でキョロキョロしているのです(マスメデイアのターゲットになっています)。
 健康至上主義の医師の指導で「健康のためにはタバコを止めなさい、お酒を止めなさい、種々の不摂生を止めなさい、等」で健康のための「脅し」が親切に連発されます、する方もされる方も実行には疑問をもちながら。
 「先生の言うとおりに実行すれば長生きできますか?」と問い返されて、「長生きできるかどうか分らないが、確実に人生を長く感じるでしょう」と答えたと言う。長生きして退屈する(楽しみを健康のために禁止されるから)のです。
 科学技術の進歩で苦痛や苦悩の原因であったものの多くが取り除かれ、その結果として実りある充実した人生が期待されていましたが、結果として見えてきたのは長寿と退屈、「空白」が露出してきたのです。
 私の身体はオギャーと生まれて以来、物心がついて気づいてみればここに両親有り、そして眷属あり、環境ありでありました。そして私の意識は社会生活を営む中に出来上がってきました。それなのに私の意識は「われ思う、ゆえに我々あり」と、生まれてきた世界、育てられた世界、生かされている、支えられている世界を無視し、私の身体の上に君臨するようになったのです。
 私は意識だけでなく、身体全体で私であり、老病死する存在として生まれてきたのです。しかしながら、「我」の意識は今までの経験から自己イメージを作ります。イメージの中には当然、死は含まれていません、そして自分のイメージを守ろうとします、プライドが傷つくのは嫌ですから。自己イメージが壊されるのが嫌なのです、その最たる物が「死」かもしれません。
 単なる動物でない人間としての特徴が、意識を司る脳を持つということでしょう。脳の活動を尊重することで現在の文明が発達してきました。動物としての「ヒト」であれば生命現象として物理的な時空を生きているだけで問題はなかったでしょうが、人間はそれらに会わせて意識世界を生きる存在なのです。
 事故で足を骨折した犬は肉体的な痛さは感じても、痛みがおさまれば、障害のある不自由さを悩むことはないようです。しかし、人間は思うようにならない、不自由という事実に直面して、なぜ自分はこんなに苦しまなければならないのか、その理由を探さずにはおれないのです。
 まさに人間の意識が人間を苦しめているのです。そして意識以外の外の事象が人間を苦しめていると考え、その原因を外に求めるしかなかったのです。「われ思う」ところの意識、その意識が作り上げた自己イメージを私と思っているから、意識そのものを問うことは出来ないのです。
 身体の汚れは風呂で清め、一夜の熟睡で、新しい朝を向かえることができます。しかし、意識が作り上げた自己イメージの「我」は物心がついて以来、悪業・煩悩で汚染されてきて、汚れを落とし再生する場を現代社会は持てなくなっているのです。
 縁起の教えの如く、多くの因・縁によって一刹那ごとに生滅を繰り返している存在のあり方こそ、いのちの再生のあり方を示してくれています。死に裏打ちされた「生」を一瞬・一瞬生きている、生かされている自分のいのちの「今」の有り方への気づき(浄土という場)こそ、イキイキと生きることへと繋がる再生の場ではないでしょうか。浄土こそ現象面での「今」と永遠(無量寿)の「今」の共鳴の時・場でしょう。
 南無阿弥陀仏(汝、小さな殻を出て、大きな世界に来たれ)の名告り、呼びかけに南無阿弥陀仏とただ念仏せしめられる時・場こそ、まさにいのち再生の呼応・共感であります。(南無は「我・エゴ」の死であり、阿弥陀仏は永遠の、仏のいのちへ信順、そして新しい命への目覚め)

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