3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2545)

 このホームページを見た人から次のような質問が来ました。
 「親鸞上人の考えの中で「煩悩具足の凡夫」や「他力念仏」などが有りますが、どういうことか詳しく教えてください。そしてこの教えをどのように理解しこれからどのように生きていこうと思いになりましたか?」
 私の返信(後半の部分に対しての)は次のような内容です。
 「私のページにアクセスしていただきありがとうございます。質問の内容があまりにも大きく、もう少し焦点を絞った質問をしていただければ的確な対応が出来るかもしれませんが、ひとまず私の思いを書かせて頂きます。(1)与えられた立場、与えられた環境の中で世間の使命を果たしていく。心は「仏法を主として、世間を客人とせよ」の言葉を大切に。(2)よき師が世間のことは余力を残して止めなさい。後生の一大事ということがあるから、と言っていました。そのことを考えながら今後のことを考える。(3)仏教と医療の協力関係を講築していきたい。(4)次の世代への橋渡しと言うことを考え、教育と言うことを考えて行く。こんなことを考えています。しかし、大事なことは更に仏の心を尋ねていきたいと言うことです。ご意見をお聞かせください。合掌」
 浄土真宗のお話はどうしても勇ましくない。我らは迷悶者である。迷悶者である者が本願力の教えによって大いなる安慰を賜る。このことが教化を蒙る者の恩恵であると静かに語り、念仏するということになります。決して華々しくありません。
 傍観者の世間的な視点から言えば「念仏したくらいでどう変わるの?、何にも変わらないじゃない」と言いたくなるものであります。
 それに比べて法華経を信奉する日蓮上人は末法の世に仏法が其の生命を失って滅んでいこうとする状況判断の中、大地から立ち上がってここに仏法ありと、民衆の先頭に立って、民衆を引っ張って行こうとされる宗教的情熱を発露されています。世間的な発想の延長線上に仏教を考えている人にはこちらの方が魅力的かもしれません。
 家族に病気の人や死人が出て世間的な眼で見ると不幸にあっていると思われる念仏者に「あなたが信仰する念仏の教えが悪いのです。我々の信奉する宗教に入信すれば、あなたが抱えているような不幸にはならないようになります。」と親切にも手紙が来たという。老病死を避けることが出来ると本当に思っているのでしょうか。
 老病死を不幸とするならば全ての人間は老と言う不幸、病と言う不幸、そして不幸の完成としての死は避けられないことは明らかであります。
 仏縁を頂き、お育てを頂いた私の自覚においては一生被教育者として教化を蒙って行く歩みををさせていただきます,南無阿弥陀仏、であります。しかし、念仏の教えを生きている先輩や同朋の皆さんの生き方はイキイキと輝いています。歎異抄の7章には「念仏者は無碍の一道なり」と念仏者の生き様が力強く表白されています。
 メールの質問者からはその後の返信は来ていません。きっと質問者の思いに返答が沿わなかったのでしょう。
 念仏の教えは理知を働かせてもなかなか分かりずらいものがあります。「難中の難」とも言われています。ただし、それは難しい、難しいと言っているだけではなく、理知を超えて仏教の世界に出合ってみると、よくもまあ、会い難き仏法に出会えたものだという感動の表現でもあるのです。
 浄土系の人たちが一番大事にするお経,大無量寿経の中で、世自在王仏に出合った法蔵菩薩が一切の苦悩の衆生が救われる世界(浄土)を造る為の願いが48の本願として説かれています。
 本願の内容を尋ねて見ると、我々人間の本性を見抜き見破って心の奥底の思いを我々に気づかしめ、その思いの実現・満足できる手だてを教え示してくれているのです。しかし、私が仏教の世界を小賢しく疑っているからそれが受け取れないのです。この小賢しさこそ、我々の頼りにする理知分別であります。仏教の智慧を疑ってなおかつ仏教を求めようとすること自体、自己矛盾を抱えているのですが−−−−−。
 法蔵菩薩の物語を読んで行くと菩薩のイキイキと躍動する様を見る思いがします。それは先輩方、よき師、よき友の姿と重なって見えます。ここに法蔵の精神を生きる人との出会いの大事さがあるのです。単に出合ったでなく、出会いが生き方の方向性を転ずるはたらきを持つのです。
 念仏の教えは地味であります。一本の木で言うとまさに根の部分でありましょう。隠れた部分ではありますが、根がしっかりしたものは必ず地上での堅実なはたらきを展開します。
 曽我量深師は「法蔵菩薩は我なり、されど我は法蔵菩薩にあらず」という言葉を残してくれています。よき師の教えを蒙りお育てを頂いていくと、更に教えを尋ねて行きたい、そしてもし出来ることならよき師のお役に立ちたい、お手伝いがしたい、と自然な展開が起こってくるのです。よき師を通して仏の心に触れて念仏する時、仏の世界と私の心の奥底の部分とが通じ、共感するのであります、それを「法蔵菩薩は我なり」と表現された。しかし、自分の全体を見るとき煩悩具足の自分の分際をみて「されど我は法蔵菩薩にあらず」といわれたのではないでしょうか。
 「法蔵菩薩は我なり」の心意気で「念仏者は無碍の一道なり」とこの混迷の世の中を歩ませて頂きます、南無阿弥陀仏。

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