4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2545)

 米国の医師、キュープラロスは患者さんから『いい生活はしてきたけども、本当に生きたことがない』という愚痴に似た言葉を訴えられたという。ホスピスで活躍される下稲葉先生は30歳台の癌末期の症状管理の出来ている患者さんから『死ぬために生きているのでしょうか』と愚痴ともつかぬ訴えを聞いたと言う。医師会報に某郡市医師会会長の新年の感想の中に「齢80年に近づくと---(中略)---『私は何のために生まれて来たのか、一体どこへ向かって生きているのか分らなくなった人生、出来る事ならもう一度やり直したい』と思う毎日です。」という文章が掲載されていました(こういうのが本人が意識せずにふとこぼれ出たSpiritual pain (スピリチュアルペイン)の訴えであろうと理解しています)。
 私はこの3月に53歳の誕生日を迎えました。自分の今まで生きてきたことを振り返ると、もの心ついて幼いころは周囲からの「よい子」を演じる期待に表面的には応えてきた。自我が目覚めてからは、境遇に愚痴を言いながらも自分でも上を目指して努力してきました。社会生活でも家庭生活でも、経済的に、社会的に安定を目指して何かしら明るい方向性を求めて走ってきました、今も走っているのであります。苦しいことも多いが時には楽しいことや満足感も無いわけではないのです、しかし、それらはすぐに過ぎ去って行ってしまいます。
 プラトンが人間の愛についての定義で「自分にないものを恋慕うことである」とし、その特徴として「一旦手に入るとそれが当たり前のようになり、次なる対象を捜し求めるようになる」と指摘されていた。明日こそ、将来こそと追い求めることに心を奪われ今の充足感が乏しい、今を全身で受け止めていると言う感じが少ないのです。
 これを科学的な考えで説明すると、生物学的には身体とは遺伝子の乗り物であるとドーキンスは言っているが、遺伝子に支配されたエゴの部分の煩悩に操られて身体が動き回っているだけであります。しかし、煩悩はより多く、より上を、より充実をと満足を知りません。
 そんな生き方ではいくら生きても生きたことにならない、それを流転・空過と厳しく指摘しているのが仏教です。
 最近、仏書で「この人生を生きるとは、死ぬと言うことは何か?------凡夫は何も考えずに身体の機能のことだと思っている。(ご飯を食べる、呼吸する、歩く、眠る、----)機能がなくなるのを死ぬと考えているのです。死とは?----本当は死んだことがないから分らない。私たちは死を外から見て死とは----といっているだけです。外から観察しているだけ、他人事であります。いのちは自分自身がそれを生きてみないと何であるかは分らない。いのちを本当に自分が生きることを他力の信心というのです。」という文章に出会った。
 53年間生きてきたが「本当に生きてきたのか? 動き回っただけではないか!」と問われると、50数年の年月は記録の上で確かに経過した、色々なことも経験した。しかし、本当に生きたということがいえるのか、空過・流転ではなかったかと言われると----、前記のスピリチュアルペインの訴えが自分のこととして響いてくるのです。 
 餓鬼精神(あれが足りない、これが出来ると、と追い求める生き方)や畜生精神(煩悩を満足させることが生き甲斐だと思っている生き方)でいくら生きてもそれは生きたことにならないと言い当てて、それを空過・流転と言い、足るを知ることのない人生と、仏教は繰り返し教えてくれています。
 そんな人生は生きても生きたことにならない(空過・流転)ということです。
 しかし、我々はなかなか聞く耳を持ちません。少し強がりを言って知性的、ニヒリズムで「人間の存在は無常であり、いわば、この世にほうりだされた存在である。何のためにこの世に出てきたのか、生きる意味とか、生きる価値とか、生きる方向というものは始めから無い。」と言い放つのです。そして「生きているうちが華だ、生きているうちに-------」となりがちであります。
 「生きているうちに-----」と言っている間は、自己流にいくら長生きしたとしても死に切れない(いつ死んでもよいという充足感がない)のでしょう。
 人生とは死に場所が見つかるまでのあがきである、との先輩の言葉があります。死に切れないことを仏教の物語では「御信心のない人が死ぬ時には何が迎えにくるかというと鬼がくるのです。鬼といっても地獄絵図に描かれた赤鬼や青鬼じゃございません。死にたくない、もっと生きていたいという思い、この世に対するいろいろな執着、今死んだら後に残る家族は会社はどうなるのだろうかという心配、そういうさまざまな妄想がどっと押し寄せて自分を苦しめる。これが鬼であります。それからまた、自分は死んだらどこに行くんだろうか、という未来への不安。たった一人でこの恐ろしい不安に直面しなければならない。これが鬼の正体です。」
 死の問題の取り組んで死の問題を超えた人(生死の問題を超えた信心の人)において(1)生きているうちには絶対に死なない、(2)死んだら死なんて考えない、となるのでしょう。そこには「今」「ここ」という押さえがなされ、いのちを今ここで生きる(生かされる)世界を不思議にも賜って人生を自由自在に生きる人が誕生するのです。そこには今の充実、満足、そしてかたじけなくも生かされていました「南無阿弥陀仏」と念仏一つで事足りる仏道を歩む人があるのです。

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