5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2545)

 仏教を理解するために人間の願いと仏の願いの違いを比較しながら考えて見たいと思います。人間の願いを考える時、自分の今までの願いはどんなだっただろう、現在はどうだろう。振り返りながら考えてみますと、幼いころは腕力的に強く、体力的に勝れて、知的に勝れていることが良いことだとなんとなく感じていました。
 自我意識を持つ様になってから、そういうことに加えて社会的、経済的にしっかりしたものを備えた人になりたいと思いましたが、小学校、中学校時代で腕力、体力、勝ち気では並みか並み以下と言うことが分かりました。知的にはどうか分からないが試験で点数を取る技術・要領は並みよりは上に居れるような気がしました。中学・高校では点数を取る技術には磨きをかけた。そして何とか大学に進学できました。
 当時の自分の願いは入学することが全てであった。それからの進む方向に関して無知であった(今の時代なら好ましくない学生と言うことだろう、しかし、当時は田舎の身近に大学生も、大学経験者もいなかった。)
 入学してからは、何とか進級して卒業、資格をとることが目標であり願いであった。学生・社会人と進み、能力、技術、知識、お金、友達、肩書き、教養、趣味等いろいろ欲しかった。いろいろ雑多な能力的、社会的、経済的、文化的な願望をもってうつうつとしていました。時代・状況の変化の中で願望も変化してまさにいろいろ雑多な沢山の願いを持って変遷して来たのです。
 結婚して家庭を持つと、子供の誕生、子育て、学校、教育、進学と途中で色々希望や願いを言っている間に子供は巣立ってしまいました。いわゆる団塊の世代の最後のグループとして歳も50歳を越えて先の希望はまだあるような気もするが、周囲を見渡せば少しずつではあるが欠けていく話も時々耳にします。その時々でまさに願望はさまざまに変化して今日に至ったのであります。
 それらの願望はまさに雑多であり良く考えてみると身勝手な願いや不可能な願いであったり、一旦手に入ると消えたり、飽きてくる内容の願いであったり決して満足が得られないような終わりのない願いであることが経験とともに気づかされて来ました。
 自我意識がでてから次から次へと本当に変化する願望に反応して対処してきました。それらをじっくり見直すとき、私はどこを目指して生きているのだろうかと自分でも戸惑いを覚えるのです。一本の筋の通った方向性の願いかというと決してそうではない。結果的には願望に振り回されて仏教で言う空過・流転していたのではないかと思われるのです。
 人類の歴史の中で先人が超人的な思索を重ね、我々人間の雑多な願望の背後にある根本的な願い、人間本来の願い、人間の発想を超えた普遍的な人間の願い、根本の願い、仏教では本願(本来の、根本の願いを合わせて本願という)と言うことばで表わす願いを大無量寿経の中に示されているのではないでしょうか。本願が説かれているお経が出来た当時の文化状況のことを思うと不思議にもと感動せざるをえません。
 私たちに先んじて本当の願い(仏の願い、本願)に目覚め、うなずかされ、その願いに生きた人々の歴史があった。その先覚の人たちが我々に「あなたの、私の、そして人間全ての本当の願いはこういうことです」と教え示してくれていた。人間の雑多な願いとは質を異にしたものでした。
 その願いの内容は。分かりやすく聞かせていただくと心の奥底で頷かさせられ、真実であったと感動させられます。その願いの世界にめざめさせられると、私をとらわれから解放へと不思議にも向かわせます。
 とらわれのない自由自在の境地に出して頂き、その願いへの気づきが私をして空過・流転を超えしめ、実(みの)りある人生への導き、普遍性のある、末通る内容であると感動させられるのです。願いが満たされると無くなるという世間の願いの次元を超えたものであったのです。
 私たちは本当の、本来の願いに気づくことが出来ずに、小賢しい私たちの知恵で、目先の利益、欲望に目をくらませられて、欲の満足を本当の願いと取り違えてしまいそうになっています。
 本願の世界、本願の内容を細やかに教え、説き聞かせ頂くと、私の姿が、私の本態が知らされ「参りました」と頭を下げざる得ないのであります。頭を下げたことが屈辱的かというとけっしてそうではなく、真なる物に出合った感動と喜びを感じせしめるのです。私の雑多な願いに振り回されている現実を痛み悲しみ何とか智慧あらしめたい、人間たらしめたいとの働きかけであります。
 その願い、はたらき、はたらきの世界(浄土)に触れて自由自在の世界に開眼した者は喜びを「超世の悲願(*)ききしより われらは生死の凡夫かは 有漏(うろ)の穢身(えしん)はかわらねど 心は浄土に遊ぶなり」(帖外(じょうがい)和讃)と讃嘆しています。
(*) 超世の悲願:迷いを迷いとも知らず本当に迷える私を悲しみ、助けたいとする願い。道理を道理と知らずに道理に反して迷う私を道理に戻すはたらきを願いと表現しています。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.