6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2545)

 「仏になるかならないかでなくて、仏にするか、しないかであります(金子大栄)」佛教は仏に成る教えと普通は理解しています。その成り方を示すと、世間を超えて(六道輪廻を超えて)まず声聞・縁覚(勉強したり、教えを聞いたり、静かな所で瞑想してある程度の悟りの境地に達した人、しかし、他への働きかけはしてない状態)となり、次に他への働きかけをする「菩薩」となり、さらに本格的な修行をして目覚めて他への働きかけも円満に出来る「仏」と成るのです。
 仏を「自利利他円満(自分も目覚め、他の人も救い、その働きが成就している)」とか「自覚覚他覚行窮満」と説明的に示すこともあります。仏は他の人を目覚めさせる働きを円満にするのです。決して自分ひとりの心の、目覚め、安定に留まらないのです。
 一人でも救われない人がいれば、目覚めへの働きかけをしていくのです。仏であった者が仏の世界から我々の世界へ菩薩として降りてきて、すなわち、我々に認知できる姿・形をとってきて、迷える我々に働きかけて私が目覚めしめられるまで限りなく働き続けてやまないのです。
 私が目覚める時、私に働きかけていた菩薩はその働きを完成するわけです。菩薩の他を目覚めさせる働きが成就したということになります。そのとき、菩薩の自利利他が円満して、その時、菩薩が仏になるということになります。
 見方を変えると、私が目覚める、救われることがなければ菩薩は仏に成れずに限りなく、私が目覚めるまで、働きかけて止まないことになります。「菩薩」が「仏」に成れないのは私が迷って右往左往し、煩悩のしがらみに振り回され、苦しみに堂々巡りしているからなのです。迷える私一人が仏になる存在(菩薩)を仏にならないように押しとどめているのです。
 戦後の教育の申し子であった若いころの私であったら「いや、私は仏さんに頼みもしていないのに」ということでしょう。
 仏の目で見ると、我々は煩悩のしがらみ(惑)に動かされて行為(業)をする、その行為の結果、色々なしがらみ、束縛(苦)を生じる。その束縛から逃れるため(惑)にさらに行為(業)をし、また苦しみを引き起こす。惑・業・苦のはてしない繰り返しが続く。こんな私を見てほって置けないで働きかけてやまない仏さんなのです。
 金子先生の言葉「仏になるかならないかでなくて、仏にするか、しないかであります」をもう少し分かりやすく補足すると「大事なことは私が仏になろうとするよりも、有縁の人(よき師、友、亡くなった親しい人)の私にたいする働きかけを私が本当に受け取って、私が救われることによって有縁の人の働きかけが成就して有縁の人の自利利他の働きが円満して、有縁の人(菩薩と受け取れるようになる)が仏になっていただくことが大事なことです」となるのではないでしょうか。
 私はついつい自分が仏に近づき仏になること、どうしたら仏になることが出来るか、どうすれば悟りが開けるか、その方法に囚われていた、そして分からん、分からんと言っていた。
 仏はそういう私を見抜いて、まず自分の分際、自分の能力・根性、本当の私の実相・姿を知らせるための働きかけを教えで示し自覚せしめ、目覚めせしめるのです。
 仏の働きに触れて育てられ目覚めしめられた者(なかなか、煩悩具足だとか、罪悪深重煩悩熾盛(ざいあくじんじゅうぼんのうしじょう)の私と頭を下げたくないのです)は、仏の働き、教えを聞いていこう、私を目覚めせしめる教えをさらに尋ねていこうと進むべき自然な方向性が出てきます。
 それは私が仏に成るという方向ではなく、まず教えに耳を傾け、ひたすら教えを聞いていこう、教えをこうむっていこう、となっていくのです。
 教えを尋ねてみると仏はまず出来の悪い私を仏の働き場(浄土)に迎えて、浄土で仏の働きを受けて仏と成るコースを用意してくれていたのです。私が仏となるのは私の力でなく仏の働き(目覚めさせる働き)であったのです。 仏とは何であるかをも知らない私が私の能力で私の決めた方法(釈尊が歩まれたと思われる方法、私はやれば釈尊の如くになれるとうぬぼれが強いのです)で仏をまねることで仏になれるはずがありません。
 私がいろいろ修行したり考えたりしなければならないと私が考えていたことは、仏がそんな私を見抜いて全て私に代わって私の為に仏に成る道を用意してくれていたのでした。
 私の下座から私にどうか救われてくれ、助かってくれ、我が名を称えてくれ、念仏する者を浄土に迎えとると働きかけて止まないのです。
 よき師・よき友を通して仏の働きに触れて、お育てを頂いたものは、働き(無量光・智慧)に照らし育てられ、ついに私の殻(我・我見)が照らし破られ、今までの仏を無視し反逆したことへ申し訳ありません、参りましたと頭を下げて念仏申させていただくのです。
 南無阿弥陀仏と念仏の生活の中で不思議にも、惑・業・苦の繰り返しの流転に気づかされ、流転を超えたみのり(実)ある人生へと導かれるのです。
 私が仏に成るということよりはまず教えを聞いていこう、教化をこうむっていこうという念仏の歩みが始まるのです。
 私が流転・空過を超えたみのりある人生を歩むこと、私が本当に救われること、私が私でよかったと言える歩みをすることが仏を仏たらしめることになるのです。私の人生の責任のなんと重いことか、そしてなんと軽いことか、南無阿弥陀仏。

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