8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2545)

 現代人は科学的な思考から「人生において刺激を求めるが意味を求めようとしない」と伴戸昇空師は言われています。
 私が人間に生まれたのは別に両親に頼んだわけではない。もの心が付いた時はすでに生まれていた。この世に放り出された存在である。偶然この世に誕生した(両親から私がまれる確率は遺伝子の組み合わせから計算すると70兆分の1という)。そんな私の存在(生きること)には別に意味はあるはずがない。そして、思考する意識の宿る脳(身体)が死ねばお終いとなる。だから生まれる前の世界とか死後の世界なんて考えようがない、そして我々は生きている間に自由に、楽しく、快適に生きることを大切にしたいと考えます。
 (厳密には科学的思考では偶然かどうか分からない、意味があるかどうか分からないとなるようです。ついつい理知・分別の傲慢さが前記の独断になります)
 そう考える我々はいろいろな外的な条件・環境を自分の好ましいものに変えようとします。そして、何か面白いことないかなと好奇心で刺激を探して回ります。眼、耳、舌、鼻、身体や、意識を楽しませることが私にとって価値があると考えます、まさに種々の刺激を求める我々の現実の姿が頷けるのです。(私が学生時代、新聞の記事を読んで福岡教育大学の仏教研究会の細川先生の会を尋ねたのは、まさにどんなことをやっているのかの好奇心、野次馬根性のなせる業でした)
 そして、外側のいろいろな条件が自分の思い通りになって、楽しく快適に生活することを幸せになると思っています。
 科学とはもともと[how to]どうしてそうなるのかの機序を解明していく学問・方法でしょう。[why]なぜと言うものを求める手段ではないわけです。科学の進歩でいろいろな現象が説明できるようになり、それを利用して人間が便利で快適に過ごせるように役に立てるようにしてきたのが現代文明です。
 しかし、その源の事実の「なぜ」と言うところには光を当てずに見ないようにしています。科学的な思考を尊重する者にとってはそこははっきりと割り切れないものが多くてじれったい領域です。それは哲学や宗教の領域であり、即物的な人間には実用的でないと感じる分野です。
 「なぜ」という疑問は「意味・意義」を求める欲求でしょう。明るい未来があるような気がして邁進している若者(前途洋洋な10代、20代)には存在の意味を求める欲求が少ないかもしれませんが、挫折を経験した若者や30代を過ぎて人生の様子が大まかに分かって来た世代には仏教のいう世間の法(諸法、ものがら)は究竟じて一切が苦だ、まあ楽しいこともあるが、しかし、それがついには皆苦に変わっていく(一切皆空)という事実にうすうす気づくようになるようになると、存在の「意味」を求める欲求が芽吹き始めます。生きる意味は何だろう、人間に生まれた意味はあるのだろうかと。
 かって仏教の師は若い人(10代、20代の人に)に仏教のいただける目標として30歳代をメドに聞法 に励むことを勧められていました。
 苦の事実があっても何とか楽しいことを次々と追い求めたり、苦を忘れることに興ずる工夫をしたり、まさに刺激を追い求めるのであります。人間の持つ小賢しい知恵(人間をホモ・サピエンス、知恵のある生き物と命名した)の方向性でありましょう。仏教ではその行き着く先を「空過」・「流転」の道と教えてくれます。
 我々は無意味な世界を生きることは出来ないので無意味であることの自覚に近づくことを避けて、何か面白いことはないかとキョロキョロ(新聞の三面記事や娯楽記事、興味本位の週刊誌の世界)と虚しく時間をすごす事になります。
 仏教は苦悩の原因が人間の無明(智慧がないこと)とそれを根拠とした邪見にあると見抜いたのです。その苦の事実・原因から苦を克服する道の取り組みがなされたのが仏道でしょう。苦の中に意味を見出したのです。
 私を取り巻くいろいろな現象は私にとって必然性、必要性があって起こって来た、確率から言っても生まれるはずのないのに私が生まれた、何か必然性はあるのではないか、意味があるのではと考えて行くのが宗教的感性のようです。
 そんなことを考えている時に「相田みつを」の詩に出会いました。
    私は無駄にこの世に生まれてきたのではない。
    また人間として生まれたからには 無駄にこの世を過ごしたくない。
    私がこの世に生まれてきたのは 私でなければできない仕事が何か一つ
    この世にあるからなのだ。
    それが社会的に高いか低いか、そんなことは問題ではない。
    その仕事が何であろうかを見つけるために 
    精一杯の魂を打ち込んでゆくところに
    人間として生まれてきた意義と、生きてゆく喜びがあるのだ。
   (昭和35年12月)
 仏教は科学のように現象の機序を客観的に説明することを目指しているのではなく、苦を解脱する方法としての意味の世界、意味を与えてくれる物語を教えてくれているのではないでしょうか。
 意味の世界、有意義な物語を持ちえることこそ仏の智慧によって教えられる世界です。「老と言うことが衰弱して行くことではなく成熟していくと」と日野原先生が「上手な生き方」で“新老人”を提唱する願いに通じるものでしょう。また信国先生(元東本願寺の専修学院院長)が著書の中で「歳をとるのは楽しいことですね、歳とともに見えなかった世界が見えるようになる」と感動を持って言われた気づき・目覚めの世界ではないでしょうか。  (続く)

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