9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2545)

 (先月の続き)
  人間は生まれたことに意味はない、放り出された存在だ。頼みもしないのに気づいた時はすでに生まれていた、生まれたのは偶然だ。意識したり、考える脳が機能しなければ人間としての意味はない、目に見える身体が死ねばおしまい。生きることに目的や意味があるとは考えにくい、生きているうちに快適で、楽しく、ストレスを少なくして安楽に、そして退屈せずに時間がすごせることが大切だ。
 科学的合理主義で教育された我々は楽観的に民主主義で最大多数の最大幸福を目指して、便利で快適で退屈せずに、周囲とも調和して、波風が立たないように、お互いに利害調整をしながら集団としての折り合いをつけて行こうとします。調整する一つのモノサシとして道徳・倫理があります。
 道徳・倫理はまさに人間のエゴ・煩悩を認めたうえでいかに折り合いをつけるか、人間社会の調和を保つにはと言うことでその基準を課題とするのものようです。そこでは本音と建前の使い分けが必要です。
 余談ですが児玉暁洋師が法話のなかで「頭の程度、知性、学歴、社会的地位等とお金の問題、異性の問題は相関しません」といみじくも言われています。
 世間生活では倫理・道徳を尊重すると言いながら、結果としての政治の不信、権威あるべき領域や学問の府でのスキャンダル、社会的な地位のある企業・人への不信・疑念、等々がマスコミを賑(にぎ)あわせます。
 社会生活世間では殺しあうような対立・争いごとは困るので人間社会を調和させるために「いのちの尊厳」という建前を掲げようとします。また生きるうえで豊かな生活ができるように生活、生命の質を大切にしようと「QOL,Quality of life」を課題として大切にして行こうとします。
 しかし、良く考えて見てください、人間の遺伝子には生物学的に基本になる方針が組み込まれているといいます。それは(1)自己保存、と(2)自己複製です(ドーキンス著;利己的な遺伝子)。自己保存の方針は他の生命を犠牲にしてでも自分のいのちを維持していこうと言う根深い欲求です、利己的な本音の部分です。
 建前と本音を使い分ける世間の理性、知性、分別の傲慢さから生きることの意味はわからない、無意味な人生をいきるのは耐えられないから、より楽しい刺激を求めよう、退屈しないようにとなります。こう言う思考から「いのちの尊厳」「QOL」を尊重しようと言う生命観は生まれるのでしょうか。
 一方、私が生まれたことに意味があるのでは、生きることに意味、意義、目的はあるのでは、こういう発想・思考の進展から哲学・宗教は出てきたのではないでしょうか。
 歴史上、釈尊に始まる目覚めの世界への展開、先人の人生苦の克服への取り組みを通して万人に可能な道としての普遍性のある仏道、仏法へと展開し、人間社会の文化・光となり人々の心をあたかも耕すかの如く、耕し、豊かな実りをもたらすことになっているのです。
 科学的な思考で、人間に生まれたこと、生きることに意味があるかないか「分からない」という客観的な見解に立つことを前提として、そして次のステップとして意味がないと考えて行くのか、意味があるのではないかと考えていくか、という順序になっていきます。
 無意味なニヒリズムの道(結果として空過・流転)を歩むか、意味の世界に目覚め・頷き、人間として成長・成熟の過程をたどり空過・流転を超える道、豊かな実(みの)り有る人生へと導かれるのか。私の歩む方向性はまさに「面々の御はからいなり(歎異抄第2章)」、選びにかかっています。
 加賀乙彦氏は講演の中で神があるという前提の人生と、神がないという前提の人生はどちらが豊かな人生になるかということを書いたパスカルのパンセと言うエッセイ集の「賭け」という文章を読んで57歳で洗礼を受ける決心のきかっけとなったと話をされています、類似する一面があります。
 日野原先生はQOLの一番高い状態は「生きていることに感謝が出来ること」と言われています。理知分別からは生きていることは当たり前、感謝なんて発想がなかなか出てこないのではないでしょうか。
 科学的思考では「幸せ」とはある条件が整うことと考えます。しかし、世間の相対的な世界では相対的なる故に満足は得られないでしょう。幸福とは幸福の条件が整った状況ではなく、喜び、充実、満ち足りた意義・意味を光(教え)に照らされて「なるほどそうか」と「今」、「ここ」で感じる能力・感性に深くかかわりあっています、現象世界の背後に働く「はたらき」を感得する智慧の眼のはたらきです。
 「幸せ」は身体全体に感じられるもの(感性が育てられ)、意味・使命に通じ、生きる意欲に結びつくものなのでしょう。医療の世界でもこういう感性を共有した人間関係を大切にして、かつ、育んでいきたい。

 「生」 杉本平一
 ものを取りに入って何を取りに来たか忘れて戻ることがある
 戻る途中でハタと思い出すことがあるが、その時は素晴らしい
 身体が先にこの世に出てきてしまったのである
 その用事は何であったのか 
 何時の日か 思い当たることのある人は幸福である
 思い出せぬまま 僕はすごすごあの世に戻る

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