10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2545)

 仏教は日本に伝わるまで、インドの種々の思想・文化を母体として生まれ、中国の思想の影響をそして朝鮮・日本の習俗の影響を受けてきた。影響を受けたというよりは飲み込んで来たというべきであります(仏教へのひいきの引き倒しか)。
 そして仏法の内容は民衆と同化しながらでも、なおかつ伝えたい“いのち”があった。教えは“ヒト”を教化して人間たらしめ、限り無い智慧をもたらし、イキイキとあふれ出る、生きるエネルギーをもたらし、是非とも伝えたいという意欲(仏のいのち、願いを生きる)を持つ人を次から次へと誕生させてきたというべきでしょう。
 仏教を話題にするとき、輪廻転生という言葉が出ることがあります。そして仏教に縁の薄い人は世間の常識として輪廻転生の考えは仏教でしょうと発言されることがあります。
 「生まれ 生まれ 生まれ 生まれて生の始めに暗く 死に 死に 死に 死んで死の終わりに冥(くら)し」
弘法大師空海
 輪廻転生は古代インドの思想であり、仏教誕生以前からあった思想だという。上記の空海の詩は輪廻転生をいっているのではないかと表面的にはとらえられます。親鸞の愚禿鈔には「曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなし」という表現があります。これもとらえ様によっては輪廻を言っているではないかといえるかもしれません。仏教の色々な物語にも輪廻転生は仏教の考えととられる喩(たと)え話が出ているからです。
 伝えたいことは言葉という媒体なしには伝わらないということと同時に言葉だけでは伝わらないものがあるようです。
 仏教を考える時に常に心しなければならないことは、自分を照らす鏡、お経ということであります。ついつい頭で考え、死後の世界はあるのか、輪廻転生するのか、等々それらは皆、頭の中で考えることで自分の身に引きあてて考えていないと仏教の正しい受け取りにつながりません。
 対象化して分析して、再統合して----とは分別のすることであって、その結果は本当の理解(体解)になっていないことが多いのです。(日本の医療界も現在、細分化した診療科の専門医を養成する方向が過ぎて一人の患者さんの身体全体を総合的に診る医師が育ってないという反省がなされています。)
 仏教が輪廻転生的な表現で表わされる心を尋ねて見ますと、自分の現実に直面して、「どうにかして、どうにかなる」というように近代の理性は考えて行きますが、実際に実行してみて現実には思うように行かない事象にぶつかり、逃げも隠れも出来ない苦しい経験しながら、「人生苦なり」の釈尊の言葉は“本当にそうだな”と頷かざるを得なくなります。(しかし、陰の声はしぶとくも「人生は苦も有り、楽も有る、楽を出来るだけ多く持つようにするしかない」とささやきます。)
 仏教は自分の分際(ぶんざい)というもの、本当の姿、実態への認識がないと響かないというか他人事になってしまい、頭での操作、遊びとなってしまいます。自分自身の実相への認識の徹底さがだいじとなります。自分で気づくというよりは、仏の光(具体的には教え、注、1)に照らされてはじめて目覚めるということが起こるのです。
 日常の現実(その中で心の状態は天であったり、餓鬼や地獄等になっていく)の前で悪戦苦闘、いっそのことどうしたらその現実を避けることが出来るか、逃げたり、よけることが出来るか、先送りできるかと思考します。一方ではその結果、引き起こされる事態は私の得になるか、損になるか、プライドが傷つくか、保てるか、人生の勝ちになるか、敗北か、世間での評価はどうか、等々と振り回されるのであります。
 思い通りに行って『天にいる心地』というのもありますが、しかし、仏教では天も迷いの世界の内であると指摘しています。天人五衰といって、天人も迷いの世界ゆえに必ず衰える、衰えることでの苦しみを避けることは出来ません、その苦しみは地獄の苦しみの16倍と記されています。
 この苦悩の現実に身体全体で直面する時、私は長い間、本当に長い間、何処をどう迷っていたのか分かりませんが、本当に深い迷いの中を迷いに迷い、迷い続けて、同じことの繰り返しで解決の方法を見出せないまま、今日に到った。振り返れば始まりのない過去から曠劫(無限の時間)を経て今の現実があるといっても言いぐらいの思いがあるわけです。
 たまたま今。今生において人間に生まれてきてそのことを感じ、考えることが出来るようになった。これは私の現実を引き受けて共に歩む大悲心(注、2)というものに触れればこそ気づかされることであります。この現実の前に落在する私のために、よき師・友は仏の世界(注、3)を背後に持ちつつ大悲してはたらきかけて止まなかったのです。その結果、今、ここで幸いにも遇い難くして教えに出遇えたのです。
 光明(智慧)(注、4)に出遭うまでの「方向性の定まらない苦の状態」の長かったと感じることを表現するとき輪廻的な生まれ変わり、死に変わり、迷いを繰り返して来た、と表わさざるをえなかったと戴くべきでしょう。輪廻転生は仏教の思想ではありません。
注、1.2.3.4.:「世俗的なるもののみが、社会生活の圧倒的関心事となっている中で、『聖なるもの』とか『清浄なるもの』とか『人間を超えたもの』とかは、現代の文明社会からは、ほとんど忘れさられたのである」(本多弘之)

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