11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2545)

 Spiritual pain(痛み)(スピリチュアル ペイン)の概念を日本へ移入するのに関係者がいろいろと苦労されています。「Spiritual」の語は辞書(研究社、新英和中辞典)には(1)精神的な、霊的な、(2)聖霊の、宗教的な、と訳されています。日本の文化、特に戦後の文化状況では関心の薄い領域であったから苦労されるのだと思います。
 現在、日本には20数万の独立した宗教法人があるそうですが。そのため宗教が清濁あわせ持つ範疇(はんちゅう)の言葉となり「何が宗教か?」世間的にはっきりしないと言うべき現象があるからではないでしょうか。
 末期患者のSpiritual pain(痛み) には、「人生の意味・目的の喪失、衰弱による活動能力の低下や依存の増大、自己や人生に対するコントロール感の喪失や不確実性の増大、家族や周囲への負担、運命に対する不合理や不公平感、自己や人生に対する満足感や平安の喪失、過去の出来事に対する後悔・恥・罪の意識、孤独。希望のなさ、あるいは、死についての不安といった広範な苦悩」が上げられています。
 Spiritual pain(スピリチュアル ペイン)等の抽象的なものは何か測れるモノサシを工夫しないと共通の課題として研究・討論が出来ません。それ故に新しい測定方法の確立は非常に大事でそれによって物事の解明の進歩が起こります。(ノーベル化学賞を受賞した島津製作所の田中氏は蛋白の新しい画期的な定量方法の確立に貢献されたのでした)
 スピリチュアル ペインの検討で村田久行氏(東海大学)は「生の無意味、無目的、無価値」などの苦悩を生み出す末期患者のSpiritual pain を「自己の存在と意味の消滅から生じる苦痛」と定義されて、日常生活で人間の存在と意味は「時間存在・関係存在・自律存在」として成立していると指摘されています。
 死の接近によって時間存在・関係存在・自律存在である人間の存在と意味がどのように脅かされるのかを考えると、(1)時間存在としては、私の生きる意味と存在は将来と過去とに支えられて現在が成立しています。すると、人間は死の接近によって将来を失うことになります。将来を失った人間は現在に生きる意味を見出せなくなるのでしょう。(2)関係存在としては、私の存在は他者との関係のなかで与えられています。私が死ぬことによって他者との関係を失うことが予測できます。(3)自律存在としては、死の接近や身体の衰弱によってさまざまな「できなくなる」を体験します。そこに自分自身のコントロールと自律を失うことが実感されます。
 個々の要素を評価・測定する方法は今後のさらなる課題ですが、Spiritual painの内容を整理して表示することができることによって対応(Spiritual care)することへの貴重な指針をあたえてくれることにもなります。
 時間存在・関係存在・自律存在の要素への対応の方向性は(1)時間存在に対しては、死をも超えた将来を見出す、そこにその新たな将来を目的としてそれへと生きる新たな意味が回復する、-----将来の回復。(2)関係存在に対しては、死によって他者を奪われることから生じることから、死をも超えた他者を見出すことが出来るならば、その他者から新たな自己の存在に意味を与えられるであろう、-----他者の回復。(3)自律存在に関しては、死の接近によって何もかも全て「出来なくなる」という依存と他律の体験から生じるのであるが、もう少し広く深く現実を見つめて、患者が援助者との対話から、感じること/思うこと/言う事/すること、つまり、知覚・思考・表現・行為のそれぞれでなおも自己決定できること、コントロールできる自由(態度的な自由)があることに目覚めることが出来たならば、多くのことで自律を回復できるに違いないのです。
 長年の仏教のお育てを頂いてみて、仏教の「縁起の教え」や智慧と慈悲の働きを感得して、教化を頂いていく道に於いて前記の三つのことは自然と実現できる、解決されると言うか頷(うなづ)けることであると思うのです。
 仏教はSpiritual pain(スピリチュアル ペイン)の解決の為の存在だとか教えだとかということではなく、仏教の世界への目覚め、悟りが随伴現象としてそれらの解決をももたらすと理解するべきだと思っています。
 仏の悟り、目覚めの世界が示されて、その方法も教えられていても、我々はその方法や教えに従うのが嫌だとする「我見」へのとらわれが本当に深いのです。目覚めの世界への方法や道筋をも自分が決めた方法でしないと納得できない構造になっています。
 物事の解明の方法は我々が決めるというか探し出すわけですが、結果としては目的の方がそれに近づく方法を規定すると言うことになっているのです。
 私たちは教えられる、指導される、とか注意されることが嫌いに出来ていると思うのです。ついつい指導する、教える、注意する方に身を置きたくなるのです。世間で経験と年数を重ねて、中堅以上として活動するようになるとなおのことプライドが高くなり、自分のおり場所に敏感になり、下座につくのが嫌になるのです。
 それを克服するのは仏教を生きている人、人格との触れ合いでしょうか。我々の猜疑心(さいぎしん)は人を見る目をも濁らせてしまっているのです。それ故に仏法は本当に聞き難く、遇いがたしであります。
 寿命の年数では天井に近い長寿社会を迎えようとしている21世紀の日本社会では根治できない病気を複数個持ちながら「最期まで如何に生き切るか」が大事な課題となると予測されています。スピリチュアル ペインの課題こそ一人一人の個人が解決すべき問題ではないでしょうか。その為に先人の思索の蓄積のある仏教に尋ねて、空過・流転を超えて「今」「ここ」を大切にし、「いきいき」と輝いて豊かに生きる道を共に歩んで行きましょう。

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