1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2546)

 高史明さんの文章[在家仏教の12月号]で考えさせる所があったので紹介します。
 「ある女性からお手紙を頂いたことがあります。その人のお母さまが、ボケはじめた。症状がどんどん進行して、ついには下のものを家中に塗りたくって歩くようにもなった。すると娘さんは、お母さんはそんな惨めな姿になってもまだ生きているのか、早く死んでほしい、と思うようになった。その極限で、とうとうお母さんが亡くなられた。すると周囲はほっとするわけです。その女性も、これでお母さんも私も楽になった、と最初は喜んでいた。この女性は仏教に縁があったのです。49日が近づいてきて、ふと気がついたのでした。ボケた母の姿、これはお母さんではない、もう見たくない、そう思っていた。ところがその母は最後の力をふりしぼって、あるがままの私の姿を見せていてくださった仏様だった、と。あるがままにあるがままです。そこに真実のいのちが生きてくる。
 対象化する知恵は迷いであることに気がつかなければ、親孝行の娘であっても、親が早く死んでほしいと思うような闇に落ちるのです。ここにこの娘さんのいのちの回復があります。私たちは生きていると思っていますけれども、その偽の知恵に、真実の生のありようを見失っているわけです。ですから死に至る病になるのでありましょう。死んでいるということがわからないのですから、生きているということがわかるはずがありません。」以上のことを私なりに消化して考えて見たいと思います。
 マルチン・ブーバーは私たちの生きる世界は2種類に分かれる。それは「私-それ」の世界と「私-あなた」の世界であるといわれています。
 「それ」は3人称で自分の周囲のモノを物や道具と見る世界である。自分の思いや欲を満たすための「物」や「道具」です。便利な利用価値のあるものと見たり、自分にとって不都合、利用価値がないと言うことになると疎ましくなり邪魔にしたり、捨てたりするのであります。そういう世界を「私-それ」の世界を生きているといいます。
 一方「あなた」とは2人称で、「友よ」と呼びかける関係、血の通った関係であります。通じ合っている親子・兄弟関係のようなものでしょう。切っても切れない関係を「私-あなた」の世界を生きているといいます。
 相手を物や道具として見る時、自分自身は結果として「物」、血の通わない無慈悲な、餓鬼・畜生になっているのです。生命現象としての生物的な「いのち」を生きているが、煩悩に引きずりまわされて動きまわっているだけだというのです。
 相手を「友よ」と人間としてみる眼を持っている時に、自分も「人間」即ち間柄を持つ人間になっているというのです。そこでは私が「生きている」という思いよりは「生かされている」という思いへの変換がいつのまにか起こっているのです。
 「美しいものを 美しいと思える あなたの心が美しい」(相田みつを)という言葉あります。見えるものは見る人の心を反映しているのです。
 私は餓鬼・畜生の世界ではなく、人間として人間の世界を生きたいと思います。しかし、現実は餓鬼・畜生の生き方をして自分のことしか愛しえない存在になっているのです。そして考えることは自分にとって損か得か、勝ちか負けか、プライドが傷つくかどうか、少しでも私にプラスになるようにと自分のことしか考えられないのです。
 こんな私の姿をみて仏さんは非常に悲しんで「智慧あらしめたい、いのち[徳]あらしめたい」とそして仏の世界[浄土]では智慧と徳が実現しています、浄土の世界へ向かえ取りたいと願いをかけずにはおれなかったのでありましょう。
 仏の姿は具体的には見えませんが、仏に教えに触れた先輩(よき師、友)が具体的に私に働きかけてくれるのです。その先輩がたの依って立つところを尋ねてみれば親鸞・法然・善導そして多くの高僧方そして釈尊にまで連なる伝統の世界を知らされるのです。
 「よき師」は私をみそなわし、「智慧あらしめたい、いのちあらしめたい」とご配慮、ご苦労、根回しをして働きかけて止まななかったのです。そういう人との出遇いを通して、私をして生きる方向性を「真実、真理、無量光、無量寿」の方に向けせしめるのです。そしてその方向性こそ私の心の底からの願っている内容の方向であったと知らされることになります。そして私は私になりきればよかったと肩の力を少し抜いて「今」、「ここで」、現実を念仏して取り組ませていただくのです。
 マルチン・ブーバーは「私」が大きな世界から「友よ」、と、物や道具としてではなく「あなた」と呼ばれていることが本当にうなずけるようになる時、「私-それ」を生きていた私という存在が自然と「私-あなた」の世界へと転じられ、私の周囲に血の通った人間世界、「友よ」と呼びかける関係を持つようになると言われています。
 南無阿弥陀仏の呼びかけがまさに「汝、小さな殻を出て、大きな仏の世界へきたれ」と仏さんの我々凡夫への呼びかけであります。
 私の分別・知性は物事を対象化して、分析して、頭で、脳でわかろうと知解(ちげ)しようとします。脳の管理する世界は「---すれば、---になる」という理想的な観念の思いが実現できる世界を描いていきます。しかしながら、世間の現実、および生身の私は思い通りにならないことが多いのです。
 高氏は「対象化の知恵は迷い」である指摘して言います。よい人間でありたい、心のやさしい人間でありたい、親孝行の自分でありたいという思いも、「わが身かわいや」の我愛の中でついつい、親孝行をしなければと言う思いと私の生身の我愛とを天秤にかけてどちらかを選ぶと言う現実(お母さんはそんな惨めな姿になってもまだ生きているのか、早く死んでほしい、と思うようになった。その極限で、とうとうお母さんが亡くなられた。すると周囲はほっとするわけです。その女性も、これでお母さんも私も楽になった)に直面せざるをえないのであります。
 仏の眼から見ると「私-それ」を生きる者は「生きて」いても「動いて」いてもそれは死んだも同然の生ける屍(しかばね)みたいだと見抜いたのです、「いらんお世話だ」という声が聞こえてきそうですが。
 生物学的に「動いて」いてもそれは基本に「今」に不足・不満があって「何か、明日こそ」というモノを求める動機であれば今が明日のための手段・方法、通過点になり、「今」が生きたものにならず、そんな今を積み重ねても結果として「空過、流転」、いくら生きても生きたことにならないと仏法は教えてくれるのです。
 無量寿[仏のいのち、永遠のいのち、南無阿弥陀仏]の世界を生きるとは、無量の因や縁によって支えられ、生かされている世界へ目覚めることであり、それこそ信心・悟りの世界でしょう。妙好人「才市」は私という存在は色々な因や縁で出来ているということをさらに深く「才市は、ご恩で出来てます」と表白されています。仏の世界を生きる者の懺悔・感動がつたわってきます、南無阿弥陀仏。

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