4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2546)

 私の三男が高校2年生の時、高校生が知人の一家数人を殺傷する事件があり、高校生を持つ保護者に県の教育長とPTA会長の連名で「家庭でも自他の命を大切にすることを教えてください」という趣旨の文章が配布されました。
 「いのち」ということを考えてみると私みたいに医学教育を受けて、医療の仕事に携わっている者は生命現象としての生物学的な命を考えてしまいます。
 その頃マスコミでも「いのち」についての報道が多くあり、その中で「なぜ人を殺したら悪いのか」という高校生の質問に説得力のある説明を大人が出来ずに「自分が殺されたら困るでしょう、だから他のいのちも大切にしなければならないのです」という説明がなされたと聞きました。私自身もその質問にはどういう答えがあるのだろうかと、戸惑っていまして、当時、納得のできる考え方を持てませんでした。
 さらに仏教のお育てを頂いた者として、仏教の無量寿、仏のいのち、永遠の命との関係はどうなんだろうかということも課題としてありました。
 ドーキンスという学者が「利己的な遺伝子」という本の中で生物というのは「遺伝子の乗り物」であると言っています。遺伝子によって作られるたんぱく質、ホルモン等を考えると、動物はホルモンに操られる生物という一面を持っていることで、その言葉が頷けます。
 遺伝子には戦略と思われる原則が2つあるそうです。それは「自己保存」と「自己複製」であります。「自己保存」とは自分の命を維持するために体の仕組みがいろいろに作られている。時には他の命を犠牲にしてでも自分の命を維持しようと行動したりするように仕組まれている。一方「自己複製」とは遺伝子を次の世代に伝えるために生物の身体はいろいろと仕組まれて行動するようになっているというのです。
 生命現象としての命は生物学的に仕組みが解明されてきて命の現象、身体の全体像が次第に理解されたり説明することが出来るようになってきています。しかし、「命を大切にする」とか、「命の尊厳」と言う発想は生命現象の機序が解明されても科学的な知識からは出て来ません。科学は価値的には中立だからです。
 「命を大切に」とか「命の尊厳」という言葉はどこから出てくるのかを考えると、生物学的な自己保存の戦略から自分のいのちを維持したい。他から危害を加えられることは困るので人間の社会集団をよい状態に維持するために道徳・倫理の観点から「命を大切に」とか「命の尊厳」という標語を考え出したと勘ぐることが出来るのです。
 「命を大切に」とか「命の尊厳」という言葉が自己保存の戦略から出てきたとすると、突き詰めると矛盾することになりますが、科学的な合理主義を信仰するが如きの現代の多くの日本人は、調和の取れた人間社会を維持するためには「いのちを大切に」とか「いのちの尊厳」を声高々に唱えなければなりません。しかし、本音は自己保存という戦略の一環ならばその題目は最終的には実効のあるものになりません。
 養老猛司氏の提唱した「都市社会」では脳の働きを優先した社会、即ち人間の知性、理性の思いが実現するような理想の社会をつくっていきます。都市社会(別名、脳化社会)は快適で、便利で、早く、人間の思いが実現できるような社会[戦後50年の現代の日本社会の状況]であります。しかし、都市社会では人間の個性が消えて物化していくというのです。有能な人材とか、医療資源と言うように部品化、物化、道具化して人間の顔が見えなくなります。交換可能は部品の一つと言うことになります。宗教なしの公的教育を受けた多数の人々で構成された日本社会の現実はまさにその方向に向いていると思われるのです。
 仏教の基本の「縁起の法」によれば、私の周囲の事物は私とは離れて[関係なく存在すると言うのではありません。 私と、私の周囲の事物とは密接な関係、切ってもきれない関係として一体化して存在するのです(依正不二)。
 小鳥の声が聞こえるということは声が聞こえるというあり方で私があるのです。風景が美しいというときは、風景が見えるというあり方で私がいるのです。「ガンジス河の砂の数ほどの因や縁によって『私』という存在はあらしめられている」というのはまさにこのことでしょう。そして一刹那ごとに生滅が繰り返されて存在するのです。数限り無い因や縁、それこそ無量寿に支えられている、死(滅)に裏打ちされた生の在り方で生かされているということでしょう。
 そんないのちに「今」「ここ」で出遇いつづけていく時、永遠の「今」を、「ここ」で賜って生きるということになります。妙好人才市は「才市は、ご恩で出来てます」といわれたと聞いています。
 生命現象としてのいのちを生きている私は自分の力で(他のお世話にならずとも)生きていると豪語(ゴウゴ)しています。しかし、深く静かに考え、教えに照らされて見れば、私のいのちは自分で生きているというよりは、多くのものに支えられている、縁が欠ければいつ死ぬかも知れないという危ういさのまっただ中で生かされているのです。
 生命現象としての「いのち」をいくら頑張って生きても地獄・餓鬼・畜生・修羅の世界を生きる(死への「生」を生きる)限り、煩悩に汚染せる意欲でいくら長く生きても仏教では生きたことにならない、生きてはいるがうろうろしている(空過・流転)だけだというのです。
 そんな私に世間的な「生死」を超えてイキイキと生きる意欲を、息吹(いぶき)を吹き込むものこそ仏のいのちです。いのちの「い」は「息」、「ち」は「勢い」です、まさに生きる根源の力です、清浄意欲、人生の原点、生活の原点、「南無阿弥陀仏」と名告り出る「いのち」です。「汝、小さな殻を出て、大きな世界に来たれ」の「仏のいのち」「仏の願い」を感得する者は仏の教えの如く人生を生きて行こう(浄土への「生」を生きる)と転じられるのです。
 そんないのちで通じ合い、浄土の世界を生きて行くいのちの仲間は傷つけあわない、奪わない、欺(あざむ)かないのです。そしてお互い助けあい、慈しみ合い、学び合い、御同行、御同朋として尊重し合うのです。 (在家仏教H15年3月号掲載分を改変)

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