5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2546)

 大無量壽経の中に48の本願が書かれています、訳された時代で本願の数が24であったり、36であったりします。しかし、どの訳でもその第一願は地獄・餓鬼・畜生のなき世界、浄土を造りたい(第一願;たとえ我仏を得んに 国に地獄・餓鬼・畜生あらば 正覚をとらじ)と誓われています。
 地獄とは「居ても立ってもおれない、一瞬たりとも安心していることのできない状態、場所」を意味しています。物が豊かになれば、交通・通信が便利になれば、早く安心出来る状態になるであろうと予想していました。大分から東京に行くのに一昼夜かかっていたのが、三時間で行けるようになり余裕の時間が出来たはずなのに余裕は出来ているでしょうか。家庭では親も子も年寄りも「早く、早く」と言ってないでしょうか。病院で人間ドックの報告書を届けるのが三週間あまりかかっていたのを関係者の希望を入れて二週間以内のするように努力をしまして実行しています、一年経過して終わってみれば報告は早くなり結果を早く知ってもらうことが出来るようになりました。報告の作業はせわしくなっていますが、受診者全体の健康の課題に益する物があったかと考えると大きな変化はないと思われます。
 昔は人間にとっての時間は太陽と月に依っていたと言います。太陽が出ると朝です。太陽が沈むと夜でした。時間の主は太陽・月・星だったのです。今はほとんどの人が時計を持ち、時間の主は人間になり、時間を管理・支配するようになったのです。そして「早く、早く」という言葉が人間の口から発せられ何となく忙しくなったと言うことかもしれません。時間的な余裕は出来るはずなのに、一瞬たりとも安心しておれない、まさに地獄に似た様相が現出しているようであります。
 餓鬼とは限りなくあれが欲しい、これが手に入れば、思うように相手が動いてくれば、と欲の問題であります。交換手段としてお金が考え出され、お金は人間の社会生活を便利にするための手段・方法の位置を本来占めていたのが、いつの間にかお金が最優先の課題になり「何をおいても、お金だ」という社会になっています。ついには人間よりは経済が優先という社会を作り、お金で人間すら交換出来るようになっています。職場での八時間はお金と交換して仕事をしなければならないとなってないでしょうか。交換可能ということは「物」になるという意味です。お金が力を発揮する都市社会では人間の顔が消えていくという意味を持ちます。
 畜生とはまさに動物(家畜)であります。人間の傍らにいて人間に支配されている存在、生殺与奪の権利を人間に握られているような存在。主に従う限り当分の間、食べることは保証されています。物や金や義理に引きずり回されている私のことです。マルチン・ブーバーの言う「我−それ」の世界を生きる限り、私(我)の周囲は「それ」であり「傍らにある存在」であり利用価値があるか、ないかで判断して差別し利用するか排除していくかの対象でしかないのです。そんなに対象物をみるかぎり、私も物(いのちなき存在)になっています。
 地獄・餓鬼・畜生の世界を作り出しているのはまさに現代を生きる私です。
 何とか安んずることの出来る場所を確保したい、生きているものが「物」になり、人間が消えて砂漠のような状態を何とか乗り越えたい、温かい血の通った人間関係を共有したい。そんな世界をこの世に作っていきたい、そんな理想を夢見るが、現実、および歴史を見る時そんなことが可能なんだろうか、絶望的にも思われます。でも一歩一歩理想の世界を目指して私の周囲に仲間を増やして行くしかないが、目指す道は遙か彼方−−−。

私:「もう情けなくて情けなくてやりきれません。人も自分を物扱いにしますけれども、私も人を物扱いにして、結局は潤いのない砂漠のような生活になります。でも、その砂漠を抜け出る道もありませんし、結局砂漠の中で死ぬよりほかはないのです、もう生きる意欲すら失いました−−−−」
師:「阿弥陀仏という名をもって示される地獄・餓鬼・畜生を超えた世界がありますよ。その世界は無味乾燥の砂漠を離れた世界です」
私:「本当ですか、そんな話、信じられない。そんなことってあるはずがないじゃないですか。それはまあ死んでから先のあの世にあると言われれば、そうかも知れませんが。この世にそんな世界があるとは到底思えません。本当にそうですか?証拠はあるのですか。」
 我らが実現すべき世界を我らに代わって実現してある、その世界が浄土であり、その浄土の世界があると言うことを阿弥陀仏という名が示しています。
 名とは夕方の「夕」と「口」から出来ています。夕方薄暗くなり、誰かわからないが、そこにいるのは誰ですかと声をかけると、名前が返ってきます。そのとき「名」は存在することを示しています、見えないけど存在するのです。
 南無阿弥陀仏、「汝、小さな殻を出て、大きな世界に出でよ」のよき師の呼びかけに、仏の働きに触れ、阿弥陀仏ということを聞いて、それを聞いた衆生が「教え示すところのものが真実であります」、そのことは「喜ぶべきことであります」、「是非ともそういう世界に生まれたい」と欲います。そういう心を発して「阿弥陀仏の御名を十声することがあれば浄土の世界に生まれさせますよ」というのが本願(18願)の心であります。
 南無阿弥陀仏の生起本末(なぜ、南無阿弥陀仏なのか)を尋ねていきましょう。

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