6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2546)

 自由自在とは日常よく使用する言葉でありますが仏教に尋ねてみると深い意味があるようです。
 まず自在について、広辞苑では「束縛も障りもなく、心のままである。思いのまま。」とあり、仏教辞典では「意のままに従わせる力、意のままであること。自由と同義。仏典では煩悩などの束縛を離れた菩薩や仏の無碍なる境地や力をいう」、と記載されています。龍樹(大乗仏教の中興の菩薩、大乗仏教、八宗の祖、AD,150-250頃)は仏のことを「自在人」と表現されています。「自ら」の本来の「在りかた」で「ある人」と言えると思います。西洋文化の言葉に「自分自身と不調和であるよりは、全世界と不調和であるほうがましだ」(プラトン)とか『全世界を得るとしても。自分自身を得ることが出来なければ何の得になろうか』(ギリシャ聖教)という言葉あるそうです(児玉暁洋師の講義から)。
 私たちは「自ら」の「在り方」を“在るがまま”に受けとっているでありましょうか。“あるがまま”を“あるがまま”に受け取るのを仏教では「真実」といいます。自らという「私」とは何かということが課題になりますが、私が“私としているもの”は本当の私か。 私の日常での意識を考える時、頭が私か、身体が私か、脳の声を聞いているか、身体の声を聞いているか、を考えて見ると興味深いです。
 次ぎの投書はそのことをよく示しています。 平成14年夏頃某新聞の投書記事(松山市、高木美栄子、71歳):「私は月満ちて生まれたが、体重2500グラムと小さく、祖父の結核に感染し、虚弱児だった。本の読むのが好きで成績はまあまあだったので、県立高女を受験した。だが、結核だと言われ不合格だった。戦争中、虚弱児と障害児は非国民とさげすまされた。だが、健康で合格した友人の一人は,動員された軍需工場で、米機の機銃掃射で命を失った。私立高女を卒業した私は食糧公団で働いていたが、22歳の秋、秋祭りの日に大量の血を吐いて絶対安静となった。恋愛の悩みと結核の悲しみに私は死を決意した。どの梁(はり)にひもをかけて首をつろうかと天井を眺めていたら、その天井がメラメラと燃え出したではないか!、思わず『火事だ、火事だ!』と叫びながらハダシで外へ飛び出した。近所のおじさんが飛んで来て,火事の原因のコンセントを引き抜いてくれて鎮火した。安静の床に戻って、私は考えた。『火事に驚いて逃げ出したのは、本当は生きたかったのだ』と。私の右の鎖骨の下には、石灰化したとはいえ、三個の空洞が鎮座している。」
 私は心を尋ねて見ると、たしかに私の頭、脳(意識のよりどころと思われる部位)に私の心があると思われます。しかし、最近の知見では「腸が第二の脳である」という学者が居ます。納得できないことを「腑に落ちない」という表現があるぐらいです。
 私の脳(頭)の声というものは無責任な一面があります。自分の身体、状況を見て生きる意味がない、生きていても苦ばかりだと悲観的になり自分を殺そうとすることもあるのです。しかし、身体の方は最後の最後まで不平不満を言わずに、如何なる境遇にあろうとも行動を共にして生きることを支えてくれるのです。
 私の頭は私の「在るがまま」の状態を受け取ることが出来ずに、「こんな私はいやだ」、「もう少し能力のある私であればよいのに」、「何で私がこんな病気に」、「もう少し、かっこよければよいのに」、「こんなにシワが出来て、もう少し若ければ」、と傍観者の如く文句を言っています。現実を受け取ったとしても「よくは分からないけど、まわりと比較して上を見てもきりがない、私より恵まれてない人もいるのだから、満足しなければ」、と未練がましいのです。
 世間で生活をする我々は相対的な有限の世界を生きています。そして現代社会ではしっかりした自我を確立することが大切で、周りの人から影響を受けない確固たる信念を持っている自立した人間が精神的に強くて善いことだと考えられて来ました。
 我々は私の在り方を自分の頭(脳)で科学的思考・分別で把握していると考えています。対象化してより客観的に事実を分析的に集めて把握するのです。しかし、相対的な世界ゆえに比較を免れません。それで周囲の人を見て私と比べて自分を考えます。心は揺れ動かざる(優越感、劣等感、等)を得ないのです。心は安んずることはありません。思うようにならないと愚痴をいうしかありません。
 そんな「苦」を逃れるために、せめてその事を忘れる時間を持とう(趣味や旅行などで)としたりします。しかし覚めた眼で見れば一時的な満足しか与えてくれません。ある先輩のゴルフ三昧の顛末記は非常に興味深いです。「4,5年前、ハワイで8日間連続ゴルフをやりました。1日目、天国に居ると感じる程に楽しみました。2日、3日と夢中でゴルフをやりました。4、5日目、他のものに目が移り出し、6日目、全く面白くなくなり、7日目、8日目、単に連日ゴルフの記録更新の為にのみ、自分を鞭打ちながらプレイしました。」
 我々には心の安んずる継続性のある本当の満足は得られないのかもしれません。ある牧師さんがプラトンの「人間の愛」の定義を紹介しています。愛とは『自分にないもの恋い、慕い、求めること』というのです。これが文化・芸術面に働けば、「より美しく」、「より素晴らしく」と、よいほうに作用すれば文化が花開き発展します。しかし、個人的レベルに限ると人間の愛には問題点があり、次ぎの三つ(1)充足すれば止む、(2)価値あるものへ思いである、(3)絶えず自己的である、を指摘されています。
 「充足すれば止む」、とは一旦手に入るとそれが当たり前となり、次なる関心事へ気がむくのでしょう。私の頭の意識の関心事は次から次へと面白いものはないかとキョロキョロするのはこのためでしょう。
 私が私としている私は「頭(脳)」でしょうか、「身体」でしょうか、それとも仏の光の照らされて「知らされる私」でしょうか。
(続く)

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