7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2546)

 (前回より続き)
 自由というものを考える時、英語でliberty とfreedomがあります。
 Libertyとは色々な規制や束縛からの自由ということです。人間の歴史はlibertyを求めての歩みであり、血みどろの命を懸けた努力が先人によってなされてきました。しかし相対的な世俗の世界、世間を生きる限り完全なliberty(自由)はありえません。せいぜい「より自由に、より自由に」(比較級)ということの繰り返しであります。
 一方freedomは「色々な束縛や規制の中に身を置いても、そこに生きながらそこから逃げ出さなくて、そこにおいて自由であろうとする人間の態度としての自由」を示すといいます。そんな自由があるのかと考えてしまいしますが。たとえば、「この現実は私に何を教えんとしているのか」と現実を真正面から受け取り、取り組み、学ぶ姿勢、生き方です。フランクルは「自己から人生を問うのではなく、人生から自己を問わなくてはならない。どんな人生にも意味がある」と言われるのです。
 理知・分別を持って理想主義にあこがれる我々は束縛・規制を取り除く取り組みが優先すべきではないかと言いたいのです。しかし、フランクルはナチスの強制収容所を経験して「束縛・規制を取り除く取り組みが優先すべきと言う者には強制収容所のような絶望的な状況では耐えることが出来ない。期待すべきものは何もなく、あるのは絶望だけだからです」、自己中心的に人生に何を期待できるかと問うのでなく、逆に「人生は何を我々から期待しているか、」と考える視点の転換の大切さを教えられたといいます。絶望するしかない状況で絶望するしかない苦悩の「意味」を知っている人が生き抜くことが出来たというのです。なんと説得力のあることでありましょう。
 清沢満之は「天命に甘んじて、人事を尽くす」と言われています。明治の時代、旧体制の本願寺教団の中で革新的な活動をして、結核という病気にさいなまれながら、思うようにならなかったであろう現実の中を、本願の歴史に大きな一歩を刻む歩みをされた人でした。
 自由自在というものを考える時、我々は何によって満ち足りるかということも考えてみることが大切だと思います。 仏教では満足とは“欲しいものが手にはいるから満足するのでなしに、「本当のもの」を欲することが出来た時に、その欲するということの中に満足がある”というのです。
 「本当のもの」とは智慧の眼を頂いて始めて見い出せるものでしょう。本当のものを欲するという意欲に生きることが自由なのです(児玉先生の講義録から)。そして同時に、意欲できるということ、欲するということができることが「自由自在」ということになるのです。
 我々はどうしても「欲しいものが手にはいるのが満足」と言う概念を抜け出ることが出来ません。しかし注意してみれば、たしかに欲しいものが手にはいれば満足が得られ、一時的な充足感はありますが、少し時間が経つと次の関心事へと私の心、思いは向いていきます。
 世間ではそれを肯定的に「現状に満足せず常に次から次へと先の事を想定して考える計画性と実行力、それから向上心を持って-------目標を持ち、そして自己実現を目指して頑張っていく----」の如くに先のことを考えながら苦労し努力をすることを積極性があると評価しています。
 仏教ではそれをどういうかというと「餓鬼・畜生の追い求める意欲」と言い当てています。真面目な取り組み、努力、精進、苦労を「餓鬼・畜生」とは失礼でないかとい声が聞こえてきます。そしてそれは生活実感のない“ひま人”の言う事で「我々は厳しい世間を生きていくために物も時間も知識も力もふんだんに蓄えて自分の思いを実現するように生きて行かなければならないのです」、と文句を発します。
 例えば、金のない貧乏の苦労を身にしみて経験した者は「金持ちになると幸せになれる」と思っていますが、ある大金持ちの人が「貧乏人には、金持ちの苦労がわからない」といったということを聞いたことがあります。意外とそうかもしれません。多くの日本人が大金持ちでなく、小金持ちになっている現代です。平均的な日本人は少しの満足感を経験していますが、その中でふっと襲ってくる不安も経験しているようです、そして何か足りないと、不足感を感じて追い求める意欲を生きています。
 追い求める動機はプラトンが指摘するように「充足すれば止む」、そして相対的世界ゆえに完全な自由(liberty)はないのだという言葉が、私自身の50余年の人生を振り返る時ずっしりと心に響いてきます。-----この延長線上に「人生、苦なり」の釈尊の言葉が味わえるような気がするのです。
 それでは仏教のいう自由自在とは?------いったいどういう事なんですか?。児玉師の「本当のもの」を欲することの中に満足があり、「『本当のもの』を欲するという意欲に生きることが自由なのです」、の言葉を吟味してみなければなりません。
 まず欲する主体の私とは何か。仏教のいう末那識(第七識;我痴、我見、我慢、我愛----いわゆるエゴ)に根ざした意識(第六識)を私としているようです、その意識は頭の脳にあると考えています。そんな私の「在り方(私が私と想定しているあり方)」にも問題がありそうです。世間で教育を受け、世間で人生経験をつみ、身(脳を含めて)につけた価値観・人生観は確かなものか、と問われることになりそうです。
 そして仏教の教えで「人間はこの世にない『常楽我浄』を追い求めて止まない存在である」ということを教えて(我々にはこの世に「常楽我浄」があってくれないと困るのです)いただいたことがあります。ないものを追い求めるのだから決して満足はありえないのです。
 私とは何か?、何を欲しているか?、これらが大きな課題です。(続く)

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