8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2546)

 (前回より続き)
 私とは何か? ----- 我々は私という実体的な存在があると確信して、そしてその私の上に依って立っていろいろと物事を考え行動しています。
 仏教の根本真理として縁起、空の考えがあります。例えば私とは、他から独立して無関係に存在するのではなく、多くの因や縁によって、相依性によって在らしめられている、存在している。実体的存在としてはない(空)が、現象としては存在している(縁起)といいます。私と言う実体は無く、縁起的な存在として現象として「ある」という在り方をしているというのです。
 有名な「色即是空」の色とは世界を構成する五つの物質的・心理的要素の一つ、すなわち五蘊(うん)(註、1)の代表で、物質的、実体的な要素を「色」といいます。
 私という私自身、本体、実体がないことを仏教では無自性(註、2)ともいい、空・無我ともいいます。
 私という実体的な私はないという、我(私)の空を悟ると、生死輪廻(世間の迷いの世界)を脱して涅槃(註、3)に入るといわれています。法(世間の事物、仏教では仏陀の教法と、事物を法といいます)の空を悟ると迷いを脱して菩提(註、4)を実現するといいます。
 大乗仏教は、我法二空を悟って菩提と涅槃とを実現しようとするのであり、そのとき、涅槃は無住処涅槃(註、5)となって生死のただなかに涅槃を見出すことになるのであります。菩提のはたらきにより、生死のただ中に身をおきつつ人々を救済する活動をしてやまない。それが大乗菩薩の理想であります。
 私という存在の真実性(縁起によって在らしめられている)に気づき、目覚める時、我々の囚(とら)われの我見、我愛、我慢、我痴という我執から解放されていくのです。
 私を愛する自己中心性、すなわち「我愛」、私の思い、判断を確かなものとして囚われる「我見」、他と比べて自分の位置を気にする「我慢」、そういう智慧のない(我痴)私の依って立つ所を照らし出される。そういう在り方をしている私を知らしてくれる仏教という普遍性・無限の真理に私が圧倒され、まさに全面降伏する時、『汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ』との師の言葉を仏の仰せ、南無阿弥陀仏といただき、仏の教えの如くこの人生を生きていきますと方向性が定まるのです。
 仏教の智慧・無量光に照らし育てられ、我の殻を照らし破られていく歩みの中で私の在り方を知らされ、そして無明性(智慧の無さ、我痴)に参ったと頭を下げざると得なくなっていくのです。
 私の小ささに気づかされ、念仏する時、その気付きの場で仏の自在性(智慧と慈悲)に通じる世界を生きる存在たらしめられるのです。
 注目すべきは私の出生について、世間では生物学的な知識を交えて「母を因とし、父を縁として」(逆にいう場合も多い)私が生まれたというのですが、仏教では「自の業識(ごっしき)を内因として父母の精血を外縁として」私が生まれたというのです。私を親が勝手に生んだという、受け身的な受け取りではなく、「自の業識」(註、6)という仏教の専門用語ですが、自分の生まれたいという意志を認めていく頷きであります。----(続く)
註、1.五蘊:五蘊(うん)とは人間の構成要素を肉体と精神の五つの要素で示した。「色」は肉体的な要素、「受」;感受作用、「想」;表象作用、「行」;意識作用、「識」;認識作用
註、2.自性:自性とはいう考え方で意味するのは、こうあるのが本当だ、こうあるのが本の性質だというふうに始めから決め込んでいく考え方。実体的なものとして決め込む考え方を自性という。それを否定した考え方を無自性という。
註、3.涅槃:涅槃とは煩悩の火が吹き消された状態の安らぎ、悟りの境地をいう。全ての束縛からの解脱することを涅槃という。
註、4.菩提:菩提とはサンスクリット語のbodhiの音写。漢訳の智、道、覚などの意訳。仏陀の混ざりけのない正しい悟りの智。一切の煩悩から解放された、迷いの無い状態。(岩波、仏教辞典より)
註、5.無住処涅槃:無住処涅槃(むじゅしょねはん)とは不住涅槃ともいう。完全な涅槃に住せず、煩悩のある迷いの世界にもとどまらない涅槃をいう。完全な涅槃に留まっていては悩みのある多くの人びと(衆生)を救うことが出来ないし、生死の悩みに束縛されていては自らも悟ることができないから、生死を脱した涅槃にも生死界にもとどまらず衆生を救うという。菩薩が大悲をもって衆生界で活躍するという大乗仏教の菩薩行を背景として生まれた語である。(岩波、仏教辞典より)
註、6.業識:業識(ごっしき)とは業のたましい、業によって次に生の心身をうる主体。父は能生(生まれさせる能力)の因、母は能所(生まれる、まさに母体としての能力)の縁で、それを外縁として自己の業識が内因となりこの身を受ける。ただし「たましい」「主体」は実体的なものではないとする。(真宗新辞典、法蔵館より)
 この説明が極めて難しいが、仏の教えに照らされて人生の流転輪廻、空過の私の在り方を知らされる時、それが弘法大師空海の偈「生まれ、生まれ、生まれ、生まれて生の初めに暗く、死に、死に、死に、死して死の終わりに冥し」に示されるように流転にきわも無い「私」が明るい世界、流転を超えた世界、仏の世界に出たいという隠されていた自分の意志のようなものを業識 と表現したと頂いています。教えに照らされて始めて知らされる自分の意志であります。その業識が父母という縁にめぐり合い、この世に人間としての生を受けるという結果になったと受け取ります。そして人間に生まれたのは仏法に出遇い、流転を超える(生死を超える)為であった、と生まれることへの自分の主体性を認めるのです。こういう物語が知らされてみると頷けるというか、現実の人生を生身を持って生死の世界を生きている私には「人生苦なり」の現実を越えたいという無意識の思いが納得できるのであります。

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