9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2546)

 (前回よりの続き)
 私が自由自在であることができない理由の一つに私という存在が不安定であるからです。縁起の法によって存在たらしめられているのですが、自我意識の記憶を思うと連続性があり変化(諸行無常)が無いように錯覚してしまい、私の在り方を固めることができると思って私の在り方を固めようと画策します。
 すこしぐらい変化することは気にしませんが自分が壊れるとか、大きく傷つくことには我々は恐怖を感じます、癌や死が怖いのは私が壊れるという事につながるからでしょう。
 ガン健診や健康診断というのも、あなたは「健康です」と保証してもらい私をしっかりものとして固めたいのです。健診結果は診察を受けた時点での判断であり、それは過去から健診日までの身体の集大成の結果が判断されたことであって、その診断を受けた瞬間から過去のことになっていくのです。決して明日が保障されたことではありません。今、大丈夫であれば今後数ヶ月から1年ぐらいは大丈夫であろうとの楽観的な観測であります。
 また身体的な面ばかりでなく、私の在り様(ざま)としての立場の問題が私を不安にさせることにもなります。私の立場が壊されたり、傷つけられたり、責められたりするのがいやで怖いのです。社会に於いて私は「院長としての職責を果たしているか」、「院長としての能力がちゃんとあるのか」「医師としての職責を果たしているか」と問い詰められ、また家庭においても「家族の一員として、夫として、父親として役割を果たしているか」と自他から問い詰められます。
 一般社会ではそれぞれが各自の立場で社会的に期待されている「役割」「立場」をはたしていかなければなりません。そしてその結果で善い悪いの評価を受けてしまいます。「院長としてしっかりしています」、「立派な院長です」、「医師の役を果たしています」、「よい夫です」、「よい父親です」、と私をかなりよい所に位置させて固めて落ち着きたいのです。しかし、現前の事実はそれを絶えず破っていくのです。私のありたいとイメージする私の姿は壊されます、壊されては建て直し、壊されては建て直し、際限ない繰り返しをやってきました。「私」が相対的世間を生きるかぎり、これでよいという結果はでてきません。
 私という心細い不安な存在が壊れない様に、傷つけられないように、問われないように、悩まないように私は防衛手段を考え、利用できるあらゆる手段・方法を駆使して私を守ろうとします、私たちは身体を鍛えたり、技を磨いたり、知識をふやしたり、金をためたり、資格を取ったり、信念を固めたり、いいわけを考えたりして心細さを解消しようとしまう。知識や金や資格や権威は確かにこの世では色々な功徳があります、役に立ちます。また社会的な地位や肩書き、見栄えや服装は人から馬鹿にされないためには世間では時には必要です。
 自分の在りたい自分の姿(私の果たさなければならない役割)と、現実の私が一致すれば自分が信じられ、自信がもてます。しかし、私という存在はなぜか不安に襲われ自分の位置(状況)を確かめようとします。確かめるということは自分を疑っている、自己不信ということです。仏教の究極の課題は自己不信ということをどう超えるかということのようです。私を疑っているから、「私はこんなもんだ」と私を固めて安定させ一時的な慰めを得る、そして嘘でもほめられたり、認められるとわるい気はしません。そういう事にかかり果てていたのが私の人生であったように思うのです。 不安定な私のあり方を安定にしよう、固めようと行動を起こし、私を救いたい、という思いを我々は無意識に持っているのです。 私の世間での行動は全てその根を、救われたい、惨めな場に自分を置きたくないという事に貫かれているようです。
 落ち込んだり喜んだりして振り回されるのは、事実を私の思いで結論付けて善悪、損得、勝ち負けで判断して固めてしまうからです。事実は因縁業果報と縁起の法則で展開したことであり、結論をつけることではないのです。この現実を背負いこれは何を私に教えんとしてあるのかと受け取る懐(ふところ)の大きさ、そしてあるがままに認める勇気、事実を真に受け取ることの出来る力は私の心というよりは如来のはたらきであると思われます。
 如来によって自分の本来というのは「形ましまさぬものだ」(註.1)と知らされるのです。しかし、世間では健康状態とか学歴とか職業、経済的状況、政治的な立場等で「あなたはこういうものだ」と決められていくけれど、それは違う、縁起の法による在り方で私は存在するという目覚めで世間を超えて生きていけるのです。
 如来が如来自身を我々に「南無阿弥陀仏(汝、小さな殻を出て 大きな世界を生きよ)」と示すことによって、我々も如来から願われている、支えられている、多くのいのちのお陰で生かされているということを(名号のいわれを教えられて)知るわけです。
 私という存在は縁起的な存在であり、固めることは出来ないものです。しかし、私の思いは固まらないことが不安なのです。そういう私の有り様を見抜いて智慧有らしめたいとの本願でありました。智慧によって私の在り方への認識が照らし破られて目覚める時、自己不信を超え、自由自在の世界が展開していくのです。
(続く)
註.1:色もない形もない、言葉でも表せない世界を「如」という、如なる世界(空、涅槃)から具体的に人間に把握できる姿として南無阿弥陀仏(如来)となられているのです。同じようにまさに無数の因や縁が和合して私が存在していると いう縁起の法により、実体としてはないが現象として在るという意味

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