10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2546

 (前回よりの続き)
 「信」という事を問題にする時、自分を信じることが出来るという事は、自分の思い(理知分別)でイメージする自分と、現実の自分の在り様が一致するという事になり、「私は私である」ことに満ち足りて、結果として自分に自信をもって生きていけるわけです。しかし、我々は「私」というものに、初めから不信であるということの上に成り立っていると思われます。
 私の理知分別は「私」というものを依って立たせているところを脳の機能として、傍観者、評論家としての立場(唯識でいう、眼耳鼻舌身意の六識とエゴ(第七識)を自分として)で思考・発言します。波風が立ってないときは私という存在を漠然と意識しています。
 その意識はもの心が付いたころから始まっています。気づいた時には身体はすでに生まれ落ちて、幼いながらも成長している状態でした。身体が先に出てきて後から意識が出てきたということでしょう。その意識はいつのまにか身体の主人として、司令塔の働きをしています。
 その意識にとっては気づいてみれば私の誕生は自分の意志とは思えないのです。親が勝手に生んだとか、被害者意識、のような受け身のような所があります。自我意識に未熟な間は、親や周りの人から「良い子」を演じることが期待されていることを感じ取り、演じようとします。学校教育では、物事を対象化して見る訓練を経て、次第に自分を客観的に見ようとします。見る自分は何処にいるかというとあたかも空中に漂う透明人間みたいな無色・透明な位置にいます。そんな自分は他から期待されるばかりでなく自分でも「あ----したい、こ----したい」という欲、意欲を持つようになります。
 大人になると自分の分別を全面的に信頼して、理性知性で把握できないことはない、と自信を持って来ます。時に理解できないことがあると、安易に「そこが分かりません、説明してください」と質問する姿勢に理知の傲慢さが潜んでいるのですが本人は気づきません。
 身につまされる問題に直面しない間は波風は立ちませんが、いったん問題が起こって、困難や困ったことに出くわすと、自分の現前の事実をすぐには受け入れることが出来ません。そこで課題を対象化して分析して外の種々の状況を変化させて解決して乗り切ろうとします。外の条件を整えても解決に至らなければ、自分の行動や能力を修正・改善して対応します。
 自分の能力や知識を増やした方がよいと判断してその自分をしっかりしたものにしたり、壊れないものにしたり、利用できるものは何でももってきて、杖にしたり、柱にしたり、頼りにするのです。
 解決が難しければ、問題をどうしたら回避できるか、どうしたら先送りできるかと、自分に火の粉が降りかかると、よけて、逃げることを考えてしまいます。同時に「どうして私が」、「悪いことをしてないのになぜ病気に」、「私は馬鹿だ、運が悪い」と愚痴を言ってしまいます。
 愚痴を言うということは、自分を信用してないで、自分自身でありながら自分を客観的・傍観者的に見て、無責任に批判しているのです。自己不信とはこのことです(ここでも「私」の立場は傍観者で無責任に発言して批判し、自分自身すらも冷たく裁くのです)。結果として自信のある言動が出来ないことになってしまいます。
 自己不信の大元にあるのは、実体としてない「私」(現象としてはある私)を、いわゆる無意識のエゴに汚染された意識が縁起の法を無視して、私という実体があると想定して、その仮の私を固めようとするところに間違いの因(もと)があるのです。しかし、現実の社会生活の基盤の社会システムも、私というものがあることを前提に成り立っているのです。
 社会生活では自分の役割を成し遂げなければなりません。そのためには自分に対する社会的な認知を受けたり、信用を得なければ仕事になりません。そうするとどうしても上を目指す社会構造(ピラミッドのような構造)の中で出来るだけ上のほうに位置することが社会的な仕事をスムーズに行えることになります。
 自分の居る位置は出来るだけ上に於いて認知を受けたいのですが、色々な評価基準のモノサシがあり基準によって上がったり下がったりの繰り返しで、不安になります。しかも、相対的な世間ゆえに上を見たり下を見たりで内面の心も揺れ動きます。その結果落ち着けずに不安が出てきます。自信も揺らぐことになります。宗教を利用してでも自信を持ちたい根性を持つ私であります。
 私が私でよかったと落ち着けるのは自分の無罪者としての確認や、悟り(無我の境地等)、信心という崇高な状態において落ち着けるだろうという思いを持つことになります。我々はその思いに囚われています。
 そのために私は私を間違いない者(無罪者)、私は確かなもの、私は壊れないもの、崇高な境地(悟り等)等の立派な存在になることを目指しているのです。しかし、そうなれない現実に自分で勝手に苦しみ悩み、愚痴を言うのです。
 無量光に照らし出されて私の姿、すなわち私のよって立っている理知分別の有限性を知らされ、縁起の法(私はガンジス河の砂の数の因や縁によって在らしめられて居る)を教えられます。同時にどのような存在もささえられている、生かされている、願われている、働きかけられている、お陰であったと無条件に認められ、その存在の意味・意義をも見出し、かけがえのない価値、尊さを知らされ、仏の教え(本願)を根拠とする私が実現することになります。その結果、自然と仏の願いを自分の願いとする菩薩の誕生が起こるのです。よき師・先輩方の生き方はまさにご恩に報いる報恩行としての歩みでありました。十方衆生を諸仏として感得し、諸仏の国の衆生として尊重していかれたのでした。(続く)
註.1:ある僧侶の方から仏暦についてのアドバイスを頂きました「仏暦では五月末より新年となりますので、六月からは仏暦2547年となります。」

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