11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2546)

 (前回よりの続き)
 仏の光・智慧に照らされて知らされる罪悪深重 煩悩熾盛、下品下生の自分、凡夫への目覚めは仏の世界(相対を超えた世界、絶対)からの評価、いや評価というより照らし出されて白日のもとに露呈するあるがままの自分の姿への頷きでしょう。私は世間の評価では上の方に位置して居りたいのに、仏の目では私の本性を見破って前記の如くの指摘をするのです。
 世間のモノサシと仏教のモノサシの二重基準を持って戸惑うことになりますが。しかし、これは仏教を疑っている姿です。世間という相対的な世界で仏教の把握ができるという分別の傲慢さの中に私がいるということです。仏教の大きさがわかってないのです。仏教を世間と同じ相対的な世界でとらえようとする誤りを犯しているのです。対象化して評価する限り相対の世界を超えることは出来ません。世間での経験を積んだ上での自分の考える生活の基盤と、仏法のお育てをいただく中で照らし出され見えてく自分の本態とが並列的で別々の事象のように思えるのです。仏法の世界の超越性が感得できないから、等価値に見えるという事になりましょう。
 事実を過大に見たり過小に見たりするのではなく事実どおりに認める、在るがままを在るがままに認め働きを真理といいます。
 仏教の教えを聞き、お育てをいただく中で自分の智慧のなさ、凡夫性に気づいていくことになります。身の事実を真に認める、弁解することも隠すこともなく「ご指摘の通りです」「ご覧の通りです」と言い切れる所に私の現実と「一つ」になった現前事実があります。そしてその私を受け入れて信じるという事が成り立ち、自信ということになります。「信じる」とは「私が信頼する」とか「私が信じ込む」という私の主観的なことではなく、あるがままに照らし出された私の実体、あるがままに私を認知させられ、見られる私と見る私が「一つ」になった、疑う必要がなくなった(無疑、疑いなし)事実を「信じる」と表現するのです。そこに自らに由るという囚われのない自由自在が展開するのです。
 親鸞聖人は「難信金剛の信楽」という言葉を使い、信楽とは感動の言葉で「信じることは楽しいことだ」、という表現をされています。自分のあるがままをあるがままに認識できて、私の現実と私の目に見えた姿が一致した、信じることが出来た、自信がもてる、疑いがなくなるまでに明らかになった、そう認識が出来たことは感動すべきことだ、と言われているのです。私の有るがままを照らし出すのも、照らし出された私の姿を身体全体で頷くのも私の力というよりは仏の働きのなせる業(わざ)と頂くべきことでしょう
 仏の世界は分からない(目覚めた人から教えてもらわない限り仏の世界を知りようがない)のだが、何となく良さそうに見えて仏の世界に近づこうと種々試行するも世間生活の延長線上にあることではない世界だと感じ、世間と仏の世界との間に距離を感じ、仏教への志も頓挫して世間に埋没してしまっているのが私達の現実であります。
 仏は相手の器量に応じて教えを説いています。煩悩に振り回されたり、世間道に埋没して生活して救われない者が残るようであれば仏として仏(自利利他円満、利他:他の人が救われないと仏としての働きが成就しない)たり得ない故に、救われがたい者のために「浄土」を用意して仏説無量寿経で浄土門の教えをお説きくださっていたのでした(法蔵菩薩の物語として)。世間生活に埋没する我々のために「浄土」を準備して、ひとたび浄土に迎え取り、必至滅度と涅槃へと必ず導かれるのです。
 仏の働きの場としての浄土を感得して生きる(往生浄土)時、浄土の徳を頂き、生身のままに浄土を生きる存在たらしめられるのです。よき師、先輩方は「浄土の世界を生きる」とはどういうことかを我々に教えてくれる諸仏でありました。諸仏を見出す智慧の眼を頂き、浄土の働きの様を感得して(南無阿弥陀仏と)感動させられるのでしょう。
 私達は多くのいのちに支えられ・生かされていながら,自体満足の世界にいながら、我執(分別心)のために与えられたいのち一杯に生きることが出来なくなっているのです。仏の無量光(智慧)によって分別を照らし破ることで本来のいのち(無量寿)の世界へつれ帰らされて、自体満足の世界が展開するのです(自己満足とは私の思いが満たされて満足する世界で自体満足とは対極にあるものです)。
 難信とは信じがたい、我々の性(しょう)に合わない。我々は物事を対象化して理解するという性(さが)を持っています。自我意識は全てを自我の管理下に把握して自分の思い通りにコントロールしたいのです。自我を超えた世界は自己否定につながるゆえに認められないのです。それで私の思いでは把握できないので難信と表現されています。金剛はダイヤモンドです。固さや壊れがたいものの最高位を示しています。
 世間生活での自分の認識と、仏教で教えられる自分、両方の自分を受け入れようと私の思いで努力しますが、人間は自分が分裂したままでは生きているわけには行きません。色々な自分の現実を受け入れようと------私の頭では矛盾してしまうのです。
 あるがままをあるがままに知る智慧の世界をいただくとき自分をあるがままに認めることが出来るのです。 世間を相手の世間での生活(道)は仏の世界の内なる世界であります(人間の理性・知性はそれを逆に考えている)。世間の立場から仏の世界をみると矛盾するように思えることが仏の世界から見れば矛盾なく成り立つのです。智慧のない低次元の世界は窮屈であり、あっちで壁にぶっつかり、こっちでぶっつかり、困った困ったとまさに智慧のない、愚痴を言うしかないのです(元気のあるときは腹を立て、腹を立てる元気がなくなると妬み、そして最後は愚痴となる)。こんな私を悲しみ(大悲して),大きな世界、仏の世界がありますよ、「汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ」(南無阿弥陀仏の意味)とよき人を通して働きかけられていたのでした。 仏の世界を知らされて頷けることは感動になるのです。「---まことなるかな、---よろこばしきかな、(教行信証:総序より)」

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