1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2547)

 「人間の生命とは何か(21世紀の医療と倫理)」という公開シンポジウムが平成15年11月17日、福岡の天親ビルで筑紫女学園大学の仏教学講座・国際文化研究所共同主催で開催され、山折哲雄(国際日本文化研究センター所長)、James J.Walter(ロヨラ・メリーモンド大学教授)、田畑の3人のシンポジストによるシンポジウムが行われました。田畑の発表趣旨を2回にわたって掲載します。 (前回よりの続き)

文化的ないのち
終末期の医療の現場の緩和ケア病棟で働く人から「人間は最後の、最後まで成長する存在ですね」という発言がなされることがあります。進行癌等で身体的に衰えて行く現場で成長するということがあるというのです。
 説明を聞いてみると人間の死を4つ分けてみることが出来ると言うのです。(1)身体的(physical)な死。医療の現場は心臓の拍動や呼吸の状態で生きている、死んでいるの判断をしている領域です。(2)精神的(mental)な死、これは生きる意欲がなくなることです。精神的な鬱状態で、食欲が低下して食べたくないと言う症状が出ます。ひどい状態では拒食症というようなことになります。生きる意欲がなくなるのを精神的な死と言います。次に(3)社会的(social)な死、入院しても医師や、看護師との接点がほとんどない、親戚や近所の人も見舞いに来ない。まさに社会的に孤立しているのをいいます。(4)文化的な死、動物的に生きているだけで文化的な潤いが亡くなる場合をいうようです。死を通して命が見えてきます。
 身体的ないのちと言う領域は平均寿命等のように数字や量で表わすことが出来ます。治療の結果、延命することが出来たというように。しかし、精神的、社会的、文化的という領域は質の領域であり数字で表せません。だからこれまでは問題にされにくかったのです。質の領域を問題にしようと言ってQOLということが医療の世界で問題にしています。QOLとはquality of lifeのことで、単に動物的に生きるのではなく「よく生きる」、生命、生活の質を大切にしようと言う領域です。以上の様なことを課題とするレベルを「文化的ないのち」というのです。

根源的な命
 生物学的・文化的レベルでも相対的な世界である限り最終的には老病死によって敗北を喫するという結果になります。
 産業医科大学の哲学の非常勤講師をしておられました真言宗のお坊さんが、「死は救えるか」(地湧社)という本の中で老人や病気の人が「死にたくない」「長生きしたい」と言う、この「死にたくない」という言葉に宿されている意味、背後に隠されている意味は何かということを考えられています。そして「自分は今、生まれてから死ぬという有限のいのち生きてきて、だんだんその終わりが近づいてきた。本来ならば、仏のいのちに出遇って、永遠のいのちを生きるという存在であって然るべきなのに、仏法の世界に出遇わないままに、この有限のいのちを終わろうとしている。こんなはずじゃない」という心であり、本当は無量寿、死なない命に出遇いたいという無意識の、仏教的目覚めを求めている叫びだと書かれています。
 「長生きしたい」ということも、死にたくないというのと同じ心持ちから出ていると指摘されています。
 根源的ないのち、無量寿の世界(仏教では仏、仏性、キリスト教では神、神性、偉大な哲学者は宇宙と表現されている世界)に貫(つらぬ)かれた生命を共有できる文化を持てるとき、今、ここで、永遠のいのちを生きる場を賜り、患者さんも家族も医療者も、病気の有無、障害の有無に関係なく共に癒される世界を持ち得るのではないでしょうか。

むすび
 いのちの尊厳を声高に主張したり、他に求めたりするのではなく、自分のいのちの在り方の事実に目覚め、根源的ないのちに通じる仲間としての世界を知らされる時、いのちの仲間は傷つけあわない、奪わない、欺(あざむ)かない。そしてお互い助けあい、慈しみ合い、学び合い、尊重し合うのです。 生物学的、文化的生命の相対的な世界では、現在がいかに裕福で、健康で快適な生活であっても、老いによってしぼみ、病によって傷つき、死のよって滅びるような命は輝きを失ってしまうのです。老病死によって滅びない「いのち」を生きる世界があるという仏教、宗教の世界を共有できることが願われます。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.