2月のご案内(B.E.
Buddhist era 仏暦2547)
仏を見るということはどういうことだろうか?
我々は仏のイメージを作り「仏像」を考えたり、無量光というから「何か光輝くもの」を考えたり対象化していろいろ想像をする傾向にあります。
また見るということを考える時、自分の眼などの五官(眼・耳・鼻・舌・身)で認識出来るだろう、と思ったりします。見ていても認識できないということで課題になるのが感受性であります。感受性を考えるに二つの感受性が考えられます。自分に対して非常に敏感である感受性と、他人に対して敏感である感受性です。英語では自分に対する敏感さを意味する感受性をsensibilityといい、目の前の他者に対して敏感に感じる感受性をsensitivity
というようです。
我々は一般的に自分に対してはよく敏感になるけれど他者に対しては鈍感であることが割と多いようです。自分に対して敏感になればなるほど他者に対して鈍感になってしまう傾向があるのです。意識や関心がいつの間にか自分に向いて行くのです。相手と対話をしながら気持ちや意識が自分の方を向いて行く感受性をsensibilityと言います。自分に向きやすい意識や関心を止めて相手にほぼ100%意識をむけて、相手の気持ちを考えて見ていく感受性を
sensitivity といいます。
日本人の一般の感受性は他人がどう感じるであろうかとか気にしたり、他の人の顔色を伺いながらいろいろと言動をとるという「人前を気にする」「世間体を気にする」という、つまり「気にする」という言葉の自分に対する敏感さの感受性(sensibility)が高いようです。しかし、医療・福祉・教育等の人間を相手にする職業では相手の気持ちに気づく感受性(sensitivity)が必要とされます
仏教では質が異なる感受性が求められます。体全体で直感するとか感得するいう表現で示されるように眼に見えない意味とか意義の世界は感じ取る感受性です。広瀬杲(たかし)先生の講義をお聞きして次のようなような場面の話がありました。ある教え子の僧侶が、葬儀の後の法事の場面で、喪主の若者にその叔父が「君は若いからこれから何でも思うようにやりなさい。しかし、ひとつだけ注意しておく、それは他人に迷惑をかけることだけはするなよ」という発言をしているのを横で聞きながら背筋がゾーットしたというのです。私もこれに類する発言を自分の子供にしたのではないかと反省させられますが。ごく日常での常識的な発言であります。
しかし、よく考えて見るとわれわれは他人に迷惑をかけずに生活が出来るでしょうか。地球的な規模で考えて公害の元凶は「人間の存在」であるということを聞いたことがあります。家庭の出来事から職場、地域社会、日本、世界的視点でも他の人へ対して私たちはどう影響を与えているでしょうか、迷惑をかけてないでしょうか。自分の存在が他への迷惑を必ずかけるからといって迷惑をかけないようにと死んだとしてもそれも他人に迷惑をかける(死後の対応をしなければならない)ことになります。自分が「他への迷惑をかけて無い」と自負する人と「他の人へ迷惑をかけている」という思いを持っている人の行動の結果は客観的にどちらが回りに迷惑とかける結果になると思われますか。今の世の中は「自分は他への迷惑をかけてない」という思いの人たちによって周りが迷惑を感じる社会が事実として展開しているのではないかと思われます。他人を傍観者的に言っているのではなく、自分を含めてのことであります。
真実という言葉は仏教辞典を見ますと中国にはもともと真実という言葉は無かったが仏典の翻訳の時に「あるがまま」という意味を「真実」と訳するという形で「真実」の言葉が中国で使われるようになったとあります。仏のことを真(まこと)とも言います。われわれの思い(先入観、思い込み、偏った思い)を翻してあるがままをあるがままに見せるという働きを仏の働きといいます。釈迦三尊という場合はお釈迦さまと文殊菩薩、普賢菩薩を指します、阿弥陀仏三尊というときは阿弥陀仏に観音菩薩、勢至菩薩を示します。仏の働きを智慧(無量光)と慈悲(無量寿)で現していてそれらの三つは分けることは出来ないのです。観音菩薩(慈悲)や勢至菩薩(智慧)の働きを除くと阿弥陀仏たり得ないのです。仏の働きを勢至菩薩として示し、智慧と言ったり無量の光という表現で働きを示しています。無量の光は物事を余すところ無く照らし出す働きがあるのです。だから仏は我々にあるがままの姿をあるがままに照らし出して我々の認識にしてくれるのです。仏に教えられたとしても我々はいつの間に自分で気づいたと自分の手柄にしてしまう傾向があります。これは何でも取り込んで自分の物にしようという私(人間だとすましている私)の餓鬼精神の表れです。
「人に迷惑をかけるなよ」という言葉に自分の迷惑をかけずには居れない自分のあり方、すなわち「あるがままの自分のあり方」に気づき、目覚めて「南無阿弥陀仏」と念仏されたのでしょう。そして迷惑をかけてないという思いの大多数の人たちで構成された現代社会の現実(迷惑をかけてない、人の世話になってないという「おごり」の世界)を思ってゾーットしたのでしょう。
「人に迷惑をかけるなよ」という言葉にあるがままの自分の姿を見せられ、あるがままの世間の姿(実体)を見せられたのです。仏に出会う、仏を見るとはこのようなことを言われるのでしょう。私の外向きへの感受性はとぎすまされて(人は私をどう見ているか、どう評価しているか、認めているか、無視されていないか等)いて、自分への感受性はなんと麻痺(自分の愚かさ、至らなさ等に気づかない)していることでしょう、南無阿弥陀仏。
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