3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2547)

 広瀬杲(たかし)先生の講義で「人が欲求するものが満たされると幸せである、と思うのは人間の勝手な妄想・幻想である。」と言われています。相対的な世間での人の欲求は、例えば、子供に手が掛からなくなったら、子供が大学に入ったら、子供が就職したら、子供が結婚したら、と言うようにいったん満たされると、さらにそれ以上のものを目指すか、また満たされるとそのものへの思いが消えて次なる関心事へと心が移るという性格を持っていることを指摘されているのです。妄想・幻想という意味は一瞬の満足感はあるがそれが「あたりまえ」となり「幸せでありつづける」という予想は実現しない、ということでの妄想である。また満たされても刹那(せつな)的な満足でその思いはすぐに消えていく、場合によれば新たな不安の元になるという意味で幻想と言うのでしょう。
 さらに先生は「人が欲求するものが満たされると幸せである、と思うのは、人が今、現在、不足・不満という『在り方』をしているということを示しているにすぎない」、と言われています。しかし、世間では「明日こそ」「明日こそ」と未来に夢を持って生きていることが元気の元になっているという多くの現代人の事実があります。
 細川巌先生のお話で「世間では、習い事でも勉強・仕事でも、十年・二十年一生懸命に目標に向かって取り組めばそこそこのものになっている。もしなっていないとすると、それは目標か方法に問題がある」と言われていた。我々は世間的な幸せ・満足を目指して生きていたのではなかっただろうか。40,50年間を生きてきて『足るを知る』世界を手にすることができたでしょうか、できてないとすると、目標,方法に問題はなかっただろうか。いや我々は広瀬先生の指摘するがごとく妄想・幻想の世界を一生懸命に努力して時には苦難に耐えて動いたつもりでした。しかし目標と方法を考え違いしてただ右往左往していただけだということになるのかもしれません。死ぬまで『明日こそ』、『次がうまくいったら』と繰り返すことになるのでしょう。
 ある70歳を過ぎたご婦人が、ある程度裕福であり、大変気さくで、思ったことは何でも率直に言われる愛すべき人であった。その人が「だんだん歳をとってくる、よく生きても後10年余りでしょう。そう思うと生きている間に出来るだけ楽しんで、残った命を生きようと思うんだけれども、それがなかなか思うように行かない。以前には暇のある身になれば、旅行でもして思う存分楽しんで見ようと思ったこともあったけど、今になってみると少し歩くと腰が痛くって旅行も億劫な気がする。そしたら、一日、テレビでも見ておけばよさそうなものだけれど、それもまた飽きがくる。それで仕方が無い、思う存分なことをして気を晴らしてやよろうと思って、夜、眼が覚めると、夜中でもかまわない、台所で好きなものを作って食べてみる。しかし、これも続かない。それで今年の夏は何をしようかと思ったけども、することが無い。それでお金に不自由は無いのだから、自分の面白いと思う好みの服地をいろいろ集めて、夏、女性の着る簡易服ですが、ああいうものを十着ほど作ってみた。それを一つ一つ毎日着替えて着ておったけれども、然し、一通り着たらもう飽きが来た。誰かに上げるより仕方がない」と言われたそうです。
 宮城先生の言葉に、我々が持つ願いに「生まれてからの願い」と「生まれながらの願い」があるといわれています。「生まれてからの願い」とは、我欲を満たす願いでよく分かります。しかし、相対的な世界でのことであるので、その願いを満たしても、一時的な満足はあっても本当の満足は得られないであろうと言われています。一方「生まれながらの願い」は心の底にある願いで、その内容は本人すら十分に分かっていない。それは仏説無量寿経の『本願』で表現されているものを、教えられてみて知らされるというか気付かしめられることになるようです。でも「生まれながらの願い」であるので本当は知っていたのかもしれません、だから「忘れていた願い」であるとも言うことができます。仏法のお話を聞いて教化を受けていくうちに「本当はそうだった。それこそ心の奥底で願っていたことだった」と言うような気づかされ方をするので、そういう表現になるのでしょう。
 「明日こそ」、「これにキリがついたら」、「あれがうまくいったら」、−−−と希望と目標をもって誰も頑張ってきたのです。うまくいくことも、うまくいかないこともある。それらを経験しながら世間の実態というか人間社会の実像を知らされる。妄想・幻想との指摘が、そうであったと深く頷くことになります。同時にそれを知らしめる仏教の世界を、「教えの如くでありました」と仰がざるを得ないのです。そして仏の願いに共鳴するが如く、教え示される世界が真実でありましたと感動して仏の教えの如くに人生を生きていきたいと思いが展開するのです。
 相田みつをさんの詩「そのうち」

 そのうち お金がたまったら      そのうち 家でも建てたら
 そのうち 子供から手が放れたら    そのうち 仕事が落ち着いたら
 そのうち 時間のゆとりができたら   そのうち -------
 そのうち --------          そのうち -------と
 出来ない理由を 繰り返しているうちに
 結局は何もやらなかった        空しい人生の幕がおりて
 頭上に淋しい墓標が立つ  そのうち  そのうち 日が暮れる
 今、来たこの道帰れない

 仏説無量寿経には「法は電・影のごとしと知れども 菩薩の道を究竟し、----」(世間の出来事は光のように有るか無いか分からない、有ってもすぐに消えるようなはかないものでる。しかし、それでも菩薩はその仕事に一生懸命に取り組んで行く------)と説かれています。「今」、「今日」、「ここで」、遊ぶが如くに念仏して真剣に取り組んで生きるのです。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.