4月のご案内(B.E.
Buddhist era 仏暦2547)
我々は「どうしようもない」という気持ち(事態)になることがたびたびあります。
清沢満之の精神主義の他力の救済の項目のはじめに「私が他力の救済を念ずるとき は、私が世に処するの道が開ける。私が他力の救済を思うことを忘れるときは、私が
世に処するの道は閉ざされる。私が他力の救済を念ずるときは、私は物欲のために惑 わされることが少なく、私が他力の救済を忘れるときは、私は物欲のために惑わされ
ることが多い。私が他力の救済を念ずるときは、私が世に処するところを光明が照らしてくれる、私が他力の救済を忘れるときは、私が世に処するところを闇黒がおおう」という文章があります。
「私が世に処するの道は閉ざされる」「私は物欲のために惑わされることが多い」「私が世に処するところを闇黒がおおう」という結果が「どうしようもない」という気持ちにさせるのでしょう。
世間一般では「どうしようもない」ということが原因で、仏法への関心が引き起こされ、仏法を学び、さらに求める歩みへと展開して「念仏往生の教え」に結果として結びついていくように思っているようです。しかし、これは全く逆のようです。どうしようもないというのは結果です。仏法への無理解や「念仏往生の教え」をうなずくことが出来ないという原因が、「どうしようもない」という結果を生んでいるのです。
仏の慈悲とか神(キリスト教)の愛(日本の民族宗教のよろずの神の類は除く)というと、何か知らないが大きな世界から親切にも我々人類に賜りものみたいに恵まれ
るものという感じで受け取りやすいと思われます。受け取る方としては、「私は今のところ間に合っています。世間には困っている人がいますのでそちらの方に働きかけてください」、「私はまだ大丈夫です」、いざと言う時にはお願いすることになるかもしれませんが、となっています。しかし、初詣等では神・仏に参るときは一方的な自分のお願いをせずにおれないというあり方を我々はしています、本気ではあまりあてにはしてないが、あるかも知れないと恐れ、理知分別だけでは自信がもてず(科学的な思考を誇りながらも)、神や仏の超能力を利用してでも自分の思いを実現させるためにお願いをせずにはおれないのです。
普段の生活では慈悲だ愛だといっても本当は無関心でぼんやりと過ごしています。それが、「どうすれば快適で便利な生活が出来るか」、「どうしたら健康が保てるか」、「どうしたら若さを維持できるか」、「どうすれば病気を予防できるか」、「どうすれば安心した生活ができるか」等でやりくりして年月が経ているうちに老・病・死という現実が押し寄せてくると、「どうしようもない」、「まあこうなったら念仏のほかはない、ここまで年がいってどうしようもなくなった。もうあとは阿弥陀さんにたのむよりほかない」という風に考えやすいのです。こうなるのはまだ仏縁への見込みがあるほうであって、自分の周囲を見回して皆もそうではないか自分だけが特別なことではないと変になだめて無関心を装ったり、四苦に眼を向けないようにしたり、「虚しさ」を一時的な娯楽や好奇心を楽しませて穴埋めしているのです。しかし、「思い通りにいかない」という現実は変わらないので何かの縁に触れるたびに「どうしようもない」という思いが露出してきます。
浄土の教え「念仏するものを浄土に向かえ取る」という念仏往生の教えにうなずくことが出来ないのは、この現実世界で「念仏」したぐらいで何ら救われる足しにならないではないか。現実は能率主義、功利主義が世間全体をむしばみ、役に立たない人間、成績の上がらない人間、職場のお荷物になる人は、壊れた電気製品のように粗大ゴミとして捨てられてしまう怖い今の世の中であるという生活実感として経験しているからでしょう。
我々がこの世で頼みととしているものはなんでしょうか。私の家族、血のつながり、お金、家、土地、資格、知識、社会的地位、身体、健康、社会組織、人間関係、何らかの誇り等々。それらは利用価値があったり、いざという時に頼れそうな気がする物であります。より頼りになるように憲法や法律や権威で裏づけしたり、助け合いという名のもとに医療保険や介護保険のような保険制度を作ったりしています。
私たちの考えでは「私の」所有物や能力、資格、「私の」所属する組織(国、県、職場、家庭)の制度をより頼りになるものにして安心、救いを求めようとしています。それで「私の」外へ向けての条件や「私の」周囲の条件整備ということに励むということになります。
安定して変わらないもの(常なるもの)、普遍性のある理想の状態(浄)を追い求めるのが人間の性(さが)でしょう、仏の眼にはそんなものない、諸行無常、諸法無我といっているのですが-----人間の思いが正しいか、仏の智慧の眼で見た実態が正しいか、どちらが本当か、------こんなもの主張しあってもしょうがありません。現前の事実がどちらが真実かを人生経験の中で必ず示してくれます。
外側の諸条件が比較的整ったとしても老・病・死は避けられません。そうすると「どうしようもない」という愚痴は避けられないことになります。我々は「どうしようもない」という愚痴を言わないですむように「私の」-----、「私の」の周囲の------を整備する努力をしてきたのでした。今後もしていく(政治、経済、社会制度、科学技術、等)でしょう、限りなく----。
「どうしようもない」という結果は人間の理知分別の限界を知らないことから発生した現象ですと宗教的な天才(仏陀、キリスト,等)の教えは示されているのです。
仏教と言っても自分の努力精進・修行を積み重ね身も心も清めて悟りにたどり着くのが仏教だという思いが染み込んでいます。凡夫のための念仏・浄土の教え(浄土教)となると、私には関係ない------となって行きやすのです。易行ですが難信です。南無阿弥陀仏
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