6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2547)

 仏教という名前をかたるものの共通の基本の考え方が「縁起の法」であります。
 それは「因・縁・業・果・報」という考え方、すなわち世の中のものごとは、大きな因(原因)があって、それに条件(縁)が整って、働き・動作(業)が起こる、そしてその結果(果)が生じて、それが次なるものに影響(報)を及ぼす、という繰り返しの連続である、という考え方であります。今、目の前の事象は多くの因や縁の和合した(業)ものが現象(果)として存在するという見方であります。それが生滅を繰り返している(諸行無常)のであります。それゆえに固定して変わらないものはない(無常)、変化しない自分は無い(無我)、というのであります。
 しかし、私たちは自分は変わらずに今日まで来た、今後も変わらないであろうと思っています。私たちは生活信条として変わらないものを持って筋が通っていることが、世間では「しっかりした信念のある人間」と評価されがちであります。
 一方、身体面では健康と若さを保つ(老・病・死を避け、出来るだけ先送りする)ことが理想とされ、多くの人がそうあることを願っています。医学もそれを応援して健康で長生き、『不老不死』を目指して世界中がお金と頭脳を集めて研究・実践で追い求めています。しかし、仏教は「変化しないものはない」『老・病・死は自然なことだ』というのです。縁起の法で、私という存在はガンジス河の砂の数の因や縁によって私は『在る』というのです。ということはその一つの因や縁が欠ければ次の瞬間にはゼロ・空になるということです。ゼロとは人間では「死」ということです。私はこの数年、従兄弟や知人、同僚の死を経験しました。死に関しては決して順番はなく、生まれたばかりの赤ん坊から百歳の老人まで横一線に並んでいることを身もって感じることができました。
 大峯顕先生の著作の中で先生は40歳代のころ、夜、「このまま死ぬのではないか」という不安に襲われたということを書かれています。そしてそれを恩師の西谷啓治先生に相談されたという。西谷先生はしばらく考えて、「不安は夜だけですか」と問い返された。それで大峯先生は「そうです」と答えられると、ちょと時間を置いて「昼間もそうあると本物ですね」と応答されたという。大峯先生はそれで頷けたと言われています。
 平野修先生も本の中で夜寝るときに死の不安に襲われたことがあると書かれていました。我々の在り方は一つの因や縁が欠けたらゼロになる、「死」になるという在り方をしているというのが、「あるがまま」の「真実のあり方」を示していると思われます。これがまさに縁起の法で示されている事であると思うのです。私たちは頭の中では知っているのですが、実際はそういうことは念頭になく、死なないつもりで生きています。我々は他人の死は経験するが、決して自分の死を経験しないので、いつの間にか死はないかのごとくに考えてしまっているのです。また、自分の死には無意識のうちに眼をふさいでいるのです。死は頭では避けられないと考えているが差し迫って自分の課題と思わないのです。そして明日、将来へといろいろの予定を立てています。
 死刑囚と無期懲役囚の人への多くの面接等で心理・行動を研究した医師で作家の加賀乙彦氏は、日本では死刑囚は死刑執行される当日の朝通告を受けるので、死刑囚の人は常に明日死刑執行されるかも知れないという死を翌日に控えたような日々を毎日生きている、だから残された時間がいつも濃厚に感じられているという。一方無期懲役の人たちは不自由であろうがまさに死までは生きることが保障されている。残された時間を単調な繰り返しで退屈する一面はあるが十分にあると思って過しているのです。社会福祉の整備された社会は一面、無期懲役に似た現象を作りだしているのかも知れません。
 加賀氏の観察では死刑囚の人たちは多くが残された時間を惜しむがごとくに躁状態ですごしているようだという。一方無期囚の人はほとんどの人が刑務所ボケ(加賀氏の命名)と名つけたように時間が有り余り、活気がなくボケに似た現象を引き起こしているといっています。
 いつも死を裏に持っている「生」が、縁起の法に添った事実のあり方を示しているようです。大峯先生や平野先生の感覚は仏教的な視点の感覚だったということでしょう。仏教の智慧の目で見えるあり方こそ我々がいきいき生きるヒントを教え示しているのではないでしょうか。それが「今、今日」を大切に受け取る生き方につながると思われます。
 朝、目覚めた時、今日のいのちが誕生したと念仏し、夜、やすむ時、今日のいのちが終わる、死ぬという気持ちで念仏する。そんな死ぬ練習が大切かも知れません。

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