7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2547)

 平野修先生の「正信偈の教相(下巻)」法蔵館、の中に「我々は機を生きる存在である。機ということは弾(はず)みです。弾みで何が起こっても不思議でない。予想外のことが起こるということです」とありました。仏教辞典には「機」について・縁に遇えば発動する可能性をもつもの、・仏の教法を受け、その教化を被る者の素質能力、・しかけ、からくり、はずみ、しおどき、かなめの意、とあります。
 自分というものは縁次第でいろいろな行動や考えをする存在であるということはよく分かります。「弾み」ということで私は以前、養老先生がメはずみモを生きる社会を、「田舎社会」として発言されていることを思い出しました。
 生き物、自然の存在は刻々と変化して行くものでありあります。田舎で自然を相手に生活すると、自然(環境)の変化に対応して自分の行動を変化させていかなければなりません。刻刻の変化に刻刻の決断・行動をして生きていくというのであります。
「人生は取り返しのつかない決断の連続である」とも言われています。
 仏教の「縁起の法(万物一体の真理)」では私という存在は無数の因や縁によって現象として有らしめられていると教えています。私という存在は因や縁によって私の心や行動が次々に起こったり、起こしたりしています、「田舎社会」と通じるところがあります。
 人間は自然を制御して人間の便利がよいように工夫して、人間(私)の思いが思い通りに実現するように社会や環境を改造して来ました。病院への道すがらに見える新興住宅の家並みは外見や、小さな庭は整備され、きれいな花が次から次に咲き、人間の美意識が作り出したおとぎの国の楽園かと思われるくらいです、これが「都市社会」です。 しかし、私の実家の畑に自分たちで作ったテニスコートやその周りの状況は自然そのもので今の時期は草との戦いであります。草の種子がよくも地面一面に敷き詰めたとようにあるものだとびっくりすると同時に土地の管理にお手上げの状態です、「田舎社会」の一面がでています。
 自分の思いは、物事が自分の思い通りにことが運ぶことを欲しています。しかし、天気や生き物や自然現象は思い通りにいきません。人間は本来自然の存在の一員であり、自然の中の生き物としてのあり方が本来の姿だと思います。それを人間は理知分別を尊重して自然をも管理できるものとして傲慢になり管理していこうとしています。時々そのしっぺ返しをいやというほど受けていますが……………。
 養老孟司氏が「都市社会」、「田舎社会」という視点で発言されている中で、都市社会は人間の思い(………すれば………になる)が実現するかの如き社会である、一方、田舎社会は予定が立たない「はずみ」を生きる社会である、と言われているのです。
 また、現代社会をIT社会、情報化社会というがその実態は絶えず変化する現実(諸行無常)を情報という固定したモノにしていく社会であります。養老氏が東大の解剖の教授時代に同僚の医師から「死んだ人間の身体を研究して生きた人間が分かるか」という趣旨のことを「スルメを見てイカが分かるか」と皮肉を言われていたという。それに対して今の医師はコンピューターの画面上の検査情報や画像を見て人間の病気の診断、判断をしているが、「スルメを見てイカが分かるか」という言葉を今度は臨床の医師に返してあげたいということを言われていました。
 仏教の教える「縁起の法」は物事は絶えず変化していると指摘している。実際、生き物は絶えず変化して生滅を繰り返すがごとくに代謝を繰り返し生き物として生物学的な命を維持しています。それは絶えず変化する環境(外界)に対応して生き物として順応して生きているということです。
 人間という生き物を理解するために対象化して、固定した情報として集め、分析して人間を理解する、病気を把握するという仕事が医学であります。
 人間の思考、科学的な思考は絶えず変化するものに対しては対応が困難です。固定したものとしてとらえ、それに対応する方法を考えることの方が考えやすいのです。そしていろいろな場合を考えて対応策を考えていくのです。私たちがいろいろな場合を想定するが、すべてを場合をカバーしているかどうかが問題になります。学生時代に数学や物理の問題を解くのに、いろいろな場合を想定するのに苦労した経験をお持ちだと思います、変化するものは把握が難しいのです。
 諸行無常と変化するものを対象論理の科学的な思考で把握しようとしますが、全体の一部分しか見てない可能性があります。一部というよりは自分に都合のいいように見て、思わぬ予定外の展開に愚痴を言うことになるのです。
 我々が人から何かを勧められる時に、手を変え品を変えて、そのことが有利だという情報を提供されます、不利な情報はさらりと触れるのみです。まして自分の欲の気持ちが多いと有利なほうについつい考えがちになってしまうという弱さがあります。それを智慧がないといいます。物事の「あるがまま」を「あるがまま」に見るということは大変なことです。今、「あるがまま」を「あるがまま」にみる仏教の智慧が働く時、展開する時であるということです。

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