8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2547)

 私たちは物事を理解するために物事を小さく分けて分解して部分的に理解してあらためて部分を集めて全体を見るようにする訓練を学校教育で受けて来ました。そのときに不確かなことや感覚器官で認知できないモノは除いて確かなものだけ集めて判断してきました。この考え方を「対象論理」によるといいます。物事を対象化して自分の外に見て確かめていく見方です。一枚の紙を見ても表と裏を分けていきます。表は裏でない、表は表である、だから表は表である。このように理論を組み立てていくのです。善・悪、損・得、白・黒、勝ち・負け等、はっきりと分けて考えていき、誰にも分かりやすい思考です。
 医学の領域で言うと、生きていると言うことは死んでないと言うことだ。健康とは病気でないことだ、と考えていきます。そして医学の目指すのは元気で若々しい健康を維持することだ、となっていきます。
 世間は相対的な世界ですからそこで生活をすると、対象論理で能力のある・ない、経済的な貧・富、病気のある・なし、学歴のある・なし、知識のある・なし、老・若、男・女、等、分けて考えていくことが多いわけです。物事を理解するために出来るだけ細分化、単純化して分けて、はっきりしたものを集めていき、再統合して全体を見るようにしていくのです。
 対象論理からは、白黒つかない灰色のものは出来るだけ思考に入れないようにします。数字、形や色で示せないものは資料として採用しません。対象論理は種々の問題点を抱えていますが、こんな思考から生活に便利な器械や道具が沢山生産され、その恩恵を現代人は被っています。そして対象論理の科学的な合理主義で人間が生きるのに十分だと傲慢に考えがちであります。
 合理主義にどっぷりと浸かった意識は幸せな人生を送るには、健康、若さを維持し、能力があり、経済力がり、家庭的に恵まれて、等々考えていきます。諸行無常の世にあって、それらをいい状態で維持することは至難なことであります。そして病気で老いて体力がなくなると愚痴を言うようになります。お金を稼げなくなり、一人の孤独な生活となると不安、不幸だと考えがちです。人間の思考は相対的なモノを白黒つけて絶対化していく傾向があるのです。
 対象論理だと、自分は変わることなく私の周囲を操作の対象としてみて、周りを変化させるように働きます。言うならば自分は安全なところに身をおいて傷つくことなく他に文句や批判ばっかりする状態です。マスコミで発言する人の多くがこの立場です。対象論理は時に全体が見えないと言う弱点があります。仏教ではこれを智慧がないといいます。
 仏教の広い視点は対象論理を超えていくのです。物事を分断せず一体化して把握するのです。私と私の周囲の環境は分断できない一体としたものであるとの受け取りです。
 仏教の立場は言ったことがそそまま自分にも帰ってくるのです。評論家や傍観者であることを許しません。私と私の周囲はぴたりと釣り合っているというのです。時代が悪い、社会が悪い、政治が悪いと傍観者の発想はしなくなります。発言したとしてもそれは愚痴であり虚しいものです、その結果は自分に帰ってきます。
 仏教では生と死を分けて考えません。対象論理では生は死でない、生は生である。だから生は生である、と考えて死を遠ざけて元気で若々しい、健康な「生」に執着していきます。老・病・死は日常生活の中で病院や施設に入れて見えない、見ないようにします。あるテレビで登場人物が帰宅前になにかの事故での死人を見て、帰宅をして「今日は死人を見た縁起が悪い」と言って玄関に塩をまくという場面を見たことがありました。
 しかし、本当は死はいつでも我々生きているものには死の影があるのです。生きているということは「死ぬいのち」を抱えているということです。仏教では「矛盾的相即の論理」と言って矛盾するものが一緒になって真実の姿を現しているというのです。「絶対矛盾の自己同一」というように矛盾するものが一緒になって全体のあるがままの姿なのです。一方だけ見えている時は、「在るがまま」に見えてない、智慧の光に照らされてないと言うのです。
 縁起の法に沿って一刹那ごとに生滅を繰り返している。次の瞬間には、ゼロ、空になるようなあり方で存在しているのが私の本来のあるべきありようだと照らし示してくれているのです。矛盾するものが一体となって全体のあるがままの姿が見えるのです。死に裏打ちされているところに「生」が輝くのです。
 ある師は「人間に生まれた悲しみを知らない者は、人間に生まれた喜びを知らない」「自分のあり方に痛み、悲しみを感ずる心だけが他人の痛み、悲しみに心開くことができる」と言われています。対象論理で快適・便利・効率を追い求め、痛み、悲しみを失った人間は同時に「やさしさ、いたわり、ぬくもりの心」を失い、人間としての喜びも手放すことになるということでしょう。
 親鸞聖人は仏教との出遇いを「よろこばしきかな」と言われるとともに「悲しきかな」と表白され、矛盾する感情が一体となり「まことなるかな」と感動を表現されています。
 高史明師は「対象化する知恵は迷いである」と言い、細川先生も「対象化は人間の深い迷いである」と言われていました。対象論理を否定するのではなく、対象化の弱点を知らされながら、全体を見る視点、智慧の世界に絶えず立ち帰らしていただくことが大切なのです、南無阿弥陀仏。

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