9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2547)

 我々は物事を考える時、物事の重要性を確認するために、それは目的か手段・方法かということを考えることが便利です。目的は価値的に高いが手段・方法は価値的に低い位置にあるということです。
また目的と手段・方法が適切に組み合わされてないと、ことが順調に運ばないということになります。手段・方法は目的によって必然的に規定されてくるということでもあります。テニスがうまくなろうとすれがテニスにあった練習方法があるわけです。
研究においても目的にあった方法(実験など)を取らないと目的は達成できません。
新しい測定方法や道具、器械が発明されると、それを機会にその分野の研究が進展することがあります。そういう意味では手段・方法は大事ですが、所詮手段・方法です。それによって期待する目的が達成されるということが我々にとってはより重要なのです。
 我々の愛用する対象論理(形式論理、二元論)は現代の自然科学、科学技術、医療福祉の現場、日常生活の思案・段取り・問題解決の基本的な考え方であります。対象論理の成果が人間の欲望、欲求を満足させる文明の発展にあまりにも好都合であり、これらの思考方法で現代の便利、快適で物の豊かな生活を作り上げることができたのです。しかし、対象論理は物事を把握したり、理解する為の手段・方法、道具であるということは押さえておかなければなりません。
対象論理はデカルトに依るところが大きく「デカルトの『思考規則』」と言うのがあります。以下のものがその大まかな内容です
・私が明証的に真であると認めたものだけを受け入れる。客観的データのみ考える時の資料として取り入れる。----はっきりしないものは除く
・課題になるものを出来るだけ多く、かつ問題解決に必要なだけ小部分に分ける。
・考えを順序に従って導く、最も単純なものから、少しずつ段階をふんで複雑なものへ、 順番を持たないものも順序を想定して進む(単純から複雑へ)
・見落としがないように完全な点検と、全体にわたる通覧を行う上記のものの問題点
・あいまいなもの、明確な証拠のないものは受け入れない漠然とした不安、恐れ、検査にでてこない痛み、不快感、悩み
・全体を見失う傾向−−分割しえないものまで分割する誘惑
病人−−病気ー−患部−−病変部組織−−細菌、遺伝子
・「自然の秩序にしたがって」から「人間の秩序にしたがって」考える
 人間の意志・欲求がはっきり入る−−自然秩序にたいする人間の意志の優位

対象論理を『母の涙』を例にとって考えると、「母の涙」を対象化して分析して理解していくと「母の涙」は成分的にはH2O(水)が---%、 Nacl(塩)が---%、----、そして容積は---ml,一滴の重さが平均---mg、----、出現する季節として秋が多い、分泌の機序は涙腺の平滑筋が-----。等々と一生懸命に分析結果を説明して、それを再統合すると「母の涙」の正確な全体像をイメージすることができたでしょうか。分割して分析できない物や、白黒つかない物、抽象的な物は再統合の時にとりいれられないために再統合してイメージできる物は本来の物とは違うものになっている可能性があります。
 大峯顕先生(注、1)の表現では「近代の科学者たちは、少なくとも彼らが科学的研究に従事している間は、はっきりと意識しないが唯物論という哲学的見地に立っている」、そして現代の風潮を「科学の立場での真理だけが真理であるという独断的な主張、科学的真理を絶対化しようとする傾向が出現している」と指摘されています。さらに「自然科学は、人間存在を含めた『全ての事柄を物質性とか数量の次元へ還元して捉えることができる』という仮説にもとづいて研究を進めている。そういう科学的な解明は本来的には仮説的な性格を持つにもかかわらず、その妥当性がそのつど、客観的事実として実証されてきた。そこに科学というものの力や権威への人間の期待や信頼が生まれてきたのです。しかし、『科学がもし世界の中の全ての出来事が科学的に見られた以外のあり方をしてない』と言うことを主張し始めたならば、それは科学ではない科学的であることを自称している独断的な哲学、信仰にほかならない。」といわれ、現代の日本人の多くの知識人、や半知識人、そして大都市に生活する一般大衆は宗教と無縁な日常生活おくって「無宗教」、「非宗教」と自称するが、実態は唯物論や唯物論の科学を信じ込んでいる、擬似宗教を生きているのです、と言い当てられています。『全ての事柄を物質性とか数量の次元へ還元して捉えることができる』という仮説をいつの間にか絶対的であるかのように考えて信頼していますが、その仮説はまだ証明されていないのです、仮説ということです。対象論理へのひいきの引き倒しで、仮説である部分まで「信仰」に近い形で「信じ込む」ようになっていることを「唯物論や唯物論の科学を信じ込んでいる、擬似宗教を生きている」と指摘されているのです。その信頼をよりどころにして世の中のいろいろな事象を見ていって、その見えたものが間違いないと思い込んで行動したり、発言をする人間の独りよがりの姿を危(アヤ)うく思っているのです。そして仏教は人間の万物を対象化してゆく知恵に「対象化する知恵は迷いである」と警告を発しているのです。対象論理に基づく医学と言う実学の領域で仕事をしてきた私には「仏教の智慧の教え」は私の依って立つ基盤(対象論理)を翻させる力、はたらきを持っているのです。対象論理の課題、科学的な思考の問題点を仏教の光(教え)に照らされながら、欠点をわきまえて考え、行動していかなければなりません。南無阿弥陀仏

注、1:大峯顕先生(大阪大学名誉教授)は9月11日(土曜日)宇佐市下高家、円徳寺(電話;0978−32−1128)で講話予定です。問い合わせは円徳寺へ

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