10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2547)

 仏教の世界を知らされると自分の対象化する科学的合理主義的視点の不十分さに気づかされ、仏教の智慧の視点にうなずかざるをえなくなります。普通の我々の考える視点は自己から外の世界を見る方向性があります。考える自己の立場は変わらず絶対確実な自己として、自分以外を私の意識の操作の対象として見ていき、自己の意識はあらゆる事象や自然の中に侵入してそれらを支配し所有者のごとくになっています、ある意味では私の意識は神みたいに全能者になっているのです。そして世界全体を相手に上から見下ろすかのごとくに見て判断していきます、一見「勇ましく」見えますが、その背後には上に立つ者の宿命ですが無意識のうちに不安と孤独の陰を伴っているのです。
 仏教の視点は自己からでなく世界の方から自分を照らし出してくれる認識(心身一如、一体化、相即の論理)が本当の「悟り」「目覚め」であり正しい認識であると教えます。仏教の智慧の光(無量光)に照らし育てられ(照育)、ついに私の殻が照らし破られる(照破)。そこでは自分の愚かさを限りなく知らされ、懺悔せしめられ、仏法の大きさに驚き、仏法に出会う為の人生であった感動するのです。そして人生の意味にうなずき、人生の出来事(試練)は私に何を教えんとするのかという、人生への大きな信頼のもとに、自分の現前の事実、仕事を背負って取り組んで行くのです。よき師、よき友との人間的な出遇いを通して感得される世界です。
 禅宗の言葉に「自己をはこびて万法を修証するを迷いとす。万法すすみて自己を修証するはさとりなり」があります。道元はデカルト流の認識(対象化して自己から外を見る)を「迷い」であり「誤り」であると指摘されています。
 仏法のいう一体化、相即の論理での正しい認識によって、我々は正しい判断に導かれるのです。対象化の認識では局所的には十分に機能しますが、自然物や生物を対象とする時には全体が見えないという弱点があり、また自分の姿が見えないという大きな課題を抱えています。自分の位置、姿を問われないので傍観者の立場を取り、言いっぱなしで無責任な評論家に似た発想をするようです。立場が定まらないから方向性も出てきません、その姿を仏教では迷っているといいます。
 仏法の教える認識は「生きる力」に結びつきます。それは依正不二といって環境(依)と主体(正)は二つではなく一体であるという認識ですので自分の位置と周囲を一体として認識するようになります。自分の位置がはっきりするとき、自然と自分の生きて行く方向性も出てきて、意欲も備わってくるのです。
 「教え」には単に知識の受け伝えだけでなく、「教えてーーーせしめる」という使役の意味があります。教えを受ければ受けた者は変わるのです。教育を受けて変わらないと思っているのは知識だけの伝授を教育と思っているからです。
 私の受けてきた公教育はまさにそれであったと思われます。いや先生方は人格の涵養をめざされたのかもしれませんが、受ける私は申し訳ないことに試験に解答をだす方法を学ぶという狭い受け取りしかしていませんでした。その結果は自分は傍観者か透明人間のような立場になっていました。そして人に知られたくない内面を持つ自分、せっかく築き上げた自分の立場にとらわれ、自分が変わることを強いられるのがいやだったのです。
 仏教の教えでは自分が変わって行くことが苦痛ではなく、かえって喜びや感動につながるように思われます。教えに出遇って変化するとは、私が自分の頭が、思いが描いていた私ではなく、本当の私(仏によって照らし出された私、智慧によって心の奥底の願いに目覚めた私)になるという変化です。結果として自分が変わったと思っていたけれど、それは本当の自分に成って行くことだったのです。陶芸家の河井寛次郎氏が「人はたった一人の人に出会うために生まれてきた。そのたった一人とは自分自身である」といわれたそうです。私が私に成っていくことは自然であり、そこに落ち着けるのです。そこで仏の智慧(無量光)といのち(無量寿)をいただいて人間としての歩みを全うしていくのです。念仏の教えで教化を被った者は念仏で仏の智慧といのちをいただく時、同時に無量寿の世界を感得して、長生きしたいと思っていたことが質的に実現(無量寿に摂取不捨された私、無量寿と一体となる)して、今、今日、ここで足るを知る感動の世界を生きることになるのです。そのことを法句経の言葉では「若(モ)し人の寿(イノチ)百歳なるも大道の義を知らずんば仏法の要(ヨウ)を学推(ガクスイ)する生の1日なるにも如(シ)かず」(たとい百才のいのちを得るとも 無上の法に会うことなくばこの法に会いし人の1日の生にも及ばず)と表現しています。
 今、今日、ここで無量寿に通じて、まさに足を知るのです。その感動の結果として命の長い、短いにとらわれない、いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい、大いなるものへのお任せを生きるのです。その心を体解した良寛の逸話があります。ある人が良寛さんに「地位も財産もこの上は望まないし、唯一つ百年も生きていたいが、こればかりは」と言うと、即座に「それはたやすいことです、今日までで百年生きたと思えば百年生きたのではありませんか」と答えたそうです。これは今、ここで永遠(無量寿)とつながっている「今」、「今日」を生きている人の言葉と味わえます。

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