11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2547)

 高史明氏の文章に「人間の対象化する知恵は迷いである」があります。現代人の発想はほとんど対象化という考え方(対象論理)で思考しています。なぜ「迷い」というのか?
 私の受けてきた医学教育は、科学的な思考で論理を組み立てていって、病気の原因究明や治療法を組み立てて確立してきた学問の領域でした。30年前に胃潰瘍の原因は胃酸である言われ胃酸対策の新薬がつくり出されて胃潰瘍の手術が激減しました。
 これで胃潰瘍の問題は解決がついたかに思われていました。しかし、その後、細菌についての新しい認識および特殊条件下の細菌培養の進歩によってある種の細菌(ピロイー菌)が胃・十二指腸潰瘍の原因要素として大きく認知される様になって、治療法もこの10年で再び大きな変化を遂げました。仮説であった故に、正しいと思われていたことも100%確かという事ではなかったのです。
 我々の思考はある仮説を立ててそれを種々の方法で証明していって、仮説を検証していく積み重ねです。多くの人々の納得を得やすい思考方法です。それは「理」にかなっており、かつ「理」を積み重ねていくこと、すなわち合理的だからです。
  その思考方法には「迷い」があると言うのです。なぜ??
 救急室に重傷の患者さんが運ばれて来ますと、ひどい場合には生きているか、死んでいるかの判断が難しい場合があります(ほとんどは救急車の救急救命士等が判断しますが)。その時は、生きているか、死んでいるかの判断をはっきりさせる必要があります。生きている、または蘇生の可能性があると判断すれば積極的な治療をしていくことになります。蘇生のための知識・技術の発展で蘇生の可能性が向上してきています。
 このときの思考では「生きている」ということと「死んでいる」ことをはっきり区別します。「死」とは生物学的には「生きている」ことの種々の条件が機能不全におちいり、その結果「死」が来ると考えています。「生」と「死」は同時に共存しないのです。対象論理の合理的な思考は「生」・「死」を実体的なものと把握して、時間的なずれがある別々の事象と考えるのです。その思考が底にあるため、「死」は「生」の対極にあるもの、そして「死」は「生」を脅かすものと考えてしまうようになっているのです。
 現代生活で死体は出来るだけみんなの目にさらさないようにしています。道路上の動物の死体を見ても、悪いものを見たという発想です。まして等身大の人間の死体を見ることは自分の「死」を連想させるので、恐がり、いやなのです。それは我々にある「死」を怖がる思考があるからでしょう。日本の古代からの文化には「古事記」等に見られる考え方、「死」を忌み嫌い、汚いものという思考があるようです。神道の”清めたり”払ったりモするのはその思考に関係すると聞いたことがあります。
 仏教の思考、縁起の法では種々の因縁によって生まれ、縁によって生き、縁によって生活し、やがて縁によって命が終わっていく(縁起性)、これが人間が「生きる」ということだと教えてくれるのです。何も無いところから生まれるのではなく、種々の因や縁が和合して私は誕生したのです。種々の因や縁の世界を経典では「ガンジス河の砂の数」の無数の因や縁と表現しています。まさに無数の因や縁の世界を大きな世界、「無量寿」とも言われるのでしょう。この世での縁がつきればまた、元の世界、無量寿の世界に戻っていくのです。仏教では仏の世界(大きな生命の流れ、無量寿、無量光)から生まれて、仏の世界にかえって行くと言います。
 川面に浮かぶアブクのように種々の条件が融合してアブクという形の現象となったのです。アブクを作り上げた条件、すなわち縁が一つでも欠ければ元の河の水流に戻って行くのです。水には縁次第では種々の形態をとるという因(可能性)があるのです。
 「死」は仏教では「生」の対極にあると言うよりは死の可能性を秘めているということが「生」ということだと見るのです。「死ぬかもしれない」という在り方をしているのを「生きている」というのです。「生」と「死」を分断せず一体として受け取るのが智慧です。ここが対象化と違うところです。しかし、対象化と智慧の世界は対立しなくてよいのです、智慧の中の一局所を対象論理が占めている、という包含関係にあると理解すれば何も問題はありません。対象論理にとらわれる者には不本意かもしれません、無量寿・無量光(智慧)の世界を対象化出来ないからです。対象論理を狭い視点、小さなカラといい、智慧がないと言うのです。
 「生」の健康・健全性を思うとき、仏教の智慧の世界に由(よ)ることの大切さを知らされるのです。生の縁起性に目覚めるとき、命は自分一人の思いで勝手にすべき事ではない、支えられている、生かされている、願われている、同時に存在することのあることの難しさ、はかなさに気づいて「今」、「今日」、「ここ」を大切にして生きる、生活していくことに導かれていくのです。
 よき師、よき友を通して仏の大慈大悲を知らされ、念仏の教え(汝、小さなカラを出て、大きな世界を生きよ)に照らされ念仏する者は、自分の思考の弱点、智慧のなさ、真(まこと)でないこと、末通らないこと、大切なものと大切でないものの区別がつかなかったり、結果として自損損他になること、等に気づき、目覚めて、仏教の大きさ、真実であることを感得していくのです。
 我々は真実にふれて真実でないことに気づき、智慧にふれて智慧のなさに目覚め、本物を知って偽物に気づく、明るさを知って暗さを知るのです、そしてそれらの両者は別々のことがらではなく、一体としてあるという受け取りをすべきことがらなのです。
 「対象化する人間の知恵は迷い」とう真意は、対象論理だけだと、時代の流れの中で効率化、能率化、能力のある・無い、役に立つ・立たない、等の論理で世俗の経済、社会活動のまっただ中で振り回され、「命」とか「生きている」ということの意味を見失って、「人間として冷たい、血の通わないものになりますよ」、との警告でしょう。

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