12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2547)

 合理主義は現代生活のあらゆる分野に浸透しています。合理主義とは哲学事典では、合理:道理にかなっていること。合理主義:一般に理性を重んじ、生活のあらゆる面で合理性を貫こうとする態度。合理性:・論理の法則にかなっていること。・科学的認識に合致すること。科学的なこと。・行為が無駄なく計算され能率的に行われること。・事態が理想的な目的に適合していること。合理的:・合理性または合目的性にかなっているさま。・合理主義に適合するさま。以上の記載があります。
 現代人は学校教育で合理的な思考が出来るように訓練されてきています。合理的な思考が出来ることが評価されて、その能力に応じて世間では「頭が良い」とか「頭が悪い」とかいわれます。
 一般の職業訓練もまず合理的な思考の出来る事を目指して訓練します。現代を生きる我々の思考にはそんな思考方法が骨の髄までしみこんでいるように思われます。そんな状況の中で仏教を学びながら解決のつかない疑問は、「仏教の教えは真実である」ということの根拠は何かということでした。現代の教育を受けてきたものですから、何か確かなものを組み立てていって確かだという事を構築して納得したい気持ちがあったからです。
 釈尊は歴史上でも、世間の一般の考えの中で尊重されている様だから、仏教は多分確かなことだろうと思っていました。しかし、よく考えてみるとお釈迦さんの言ったことが確かだという証拠はどこにあるのか、正しいという証明はなされているのだろか、ということも問題になります。
仏教を学びはじめてびっくりしたのは日本のほとんどの宗派が使用している大乗経典が、釈尊が亡くなってから400年から700年経過してから出来たものだということです。
 そういう話を耳にすると、それでは釈尊が説いたことに一番近いと言われている「阿含経」(原始仏典として、『阿含経』の小部の経典が注目されています。その中に『スッタニパータ』があり、中村元先生のパーリ語和訳が岩波文庫から出ており、『スッタニパータ』はもっとも古く、あるいはお釈迦様の生の言葉が韻文として伝えられているのではと考えられています。)を学ぶことが大事ではないか、とも考えていきました。
 仏教を対象化して考えて、文献的に釈尊が直接、説いた「経典」と言うことになると、専門家でない私が片手間に追求していってもきりがないことは明らかです。専門家に任せるしかありません。(仏教典は常に弟子や継承者によって受け継がれ、発展解釈されることによって変遷してゆくという、弟子が師の教えを発展させるという宗教学からの視点が考慮されず、釈尊直説でないから「偽物」=あたかも悪意ある経緯によって誕生したかのような語彙=と切り捨てる可能性がある)
 私は文献的なことへのとらわれに留まる時間もなく、人間的に魅力ある人に出会って、その先生の話、内容に惹かれて、経典にまつわる知識よりはその師の教えを聞くことの方に関心が移っていきました。結果としていわゆる伝統仏教(禅宗や浄土教)に十分に内容のあることを知らされました。
 そんな中で未解決な問題は続いていました、すなわち(1)仏教の教えは真実か?(2)釈尊滅後、数百年後に成立した経典は現代に生きる我々の学ぶことへの信頼に耐えるのか?(3)真実であるという根拠は何か、証明はなされているのか? という事柄です。
 これらの問題提起の発想がまさしく物事を対象化して考える、合理主義的な思考の所産なのであります。
仏教的な発想での真実の証明は、合理主義的な発想と質的に異なることを知らされました。仏教(大乗経典、浄土教関係の教え)の教えによって永年のお育てをいただく(諸師がたのお話を聞いてきて)と、経典の背後にある願いというか、いのちに触れることになります。その大きさは知れば知るほど、その偉大さにびっくりします。そして自分の小ささ、愚かさにも気づいていくのです。
 光に明るく照らされると物事がはっきりと見えるようになります。愚かさは、智慧(無量光)に触れて見て、自分の愚かさに気づくのです。万年の暗室も一瞬の光によってあきらかになる、というたとえ話があります。私の知性、理性の分別が“当たり前”“当然”“常識”と思っていたことが自分の独りよがりな思いであった、とたびたび知らされることを通して、自分の智慧のなさ、自分の真実でないことに目覚めていくのです。もし仏教の教えに出遇わなかったら、人生の表層を右往左往して、のたうち回っていたであろうと身にしみて思われる時、頭を下げずにはおれなくなるのです。
 私たちは普通、「仏像を拝む」ということを言いますが。仏教の観点からは「拝むところに仏あり」と言います。私と無関係に仏は存在しないのです。仏像という実物、偶像を拝むのではなく、よき師の教える仏教物語によって自分の姿を教えられ、自分の姿勢が正されます。仏の働きに触れて、頭を下げて教えをいただくところに仏はおわします。私が高い(本人は意識してないかもしれないが)ところに居て、「教えを聞いてやる」、「良いところがあれば取り入れて利用していこう」というような発想は仏教にふさわしくありません。まして仏さんに自分の欲を満足することを実現するように供養の金品と交換条件に拝んでたのむというような自分の煩悩の満足、個人的な幸せを願うなどということは仏教ではありません。
 教えに照らされ自分の思いが真実でない(末通らない)ことを感得するということで仏教の真(まこと)であることを自覚するのです。私(私たち一人一人)の不実を照らすという“はたらき”において仏教の「真」であったと知らされるのです。「仏教に出遇って空過流転を超えて、実(みのり)のある人生を歩むことが出来つつあります、ありがとうございます、南無阿弥陀仏」、となるときに仏の教えが「真実」であることの根拠になるのです。私たち一人一人が自分の身において仏教の真実を証明していく使命を負っているのです。世間や仏教界の権威が大丈夫だというお墨付きをくれるのではないのです。

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