1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2548)

 現在、仏暦2548年と言われるように、仏教は約2千5百年年前の釈尊を歴史上始めとする教えであります。
 多くの昔から伝わる文化財は、出来た当時に比べると古くなって来ています、時間の経過で色あせたり、変成していくことは避けられません。いわゆる文化財という物は創られた時が最高であって、その後は劣化していくことは避けられないのです。まさに仏教の諸行無常と教える通りであります。仏教にまつわる日本の文化財といわれる物は建物、仏像、経典、仏教画、等の形のある物でありますが、これらも作られた当時から比べれば、輝きが衰え、変性してきています。年代物だという違った意味での“あじ”は出てきますが、物理・科学的には崩壊・変性へ確実に進んでいます。
 昔の物は壊れていく、劣化していく、薄れていくという事実に、われわれは仏教の内容までそうなっているのではないかと考えがちです。確かに仏教の教えの中に、時代の経過と共に目覚める人が少なくなるとか、仏教を大事にしなくなるという、記載があります。時代が経過して仏法が廃っていく最後の段階を“末法”といわれています
仏教の経典の内容は漢文で難しく、経典の解釈書もまた難しく、解釈書の解説書なしには理解が難しいことがたびたびであります。そのために、いくら学んでもお釈迦さんの「目覚め」だ、禅宗の「悟り」は理想的な世界で、現代人には縁の遠い世界かという思いがしていました。
 「目覚め」ということは、医学的用語では覚醒とも表現します。覚醒の程度、意識のレベルをはかる尺度を便宜的に決めて、覚醒度の評価をして意識レベルを判断しますが。それは病気のときであります。健康な人間では目覚めているか、目覚めていないかのどちらかしかないのではないでしょうか。(俗に言う「寝ぼけている」という状態はないことはないのですが)
 物事を“あるがまま”に見るためには、その事象が純粋な無色というか白色の明るい光に照らされていることが必要です。同時に目覚めた眼で見ることが大切です。われわれの意識が煩悩に汚れていたり、偏見や人生経験の狭い視点で見て、あるがままを見たつもりになりがちです。じっくりとその背後の世界まで感じ取って見る、等の幅の広い意識、視点で見ないとあるがままの全体が見えなくなっていく危険があります。
 最近、日本銀行発行のお札が新しくなりました。偽札が作られないために新しい印刷技術を取り入れて行くとのことですが、偽札を本物と偽物とに区別するときの基準は本物です。比べる基準が偽札では、偽札かどうかの判断はできません。本物との比較によって偽札が分かるのです。本物を知ることによってはじめて偽札との判断ができるのです。
 新聞や本、テレビを見ているとき、つい我を忘れて(忘我)見ているときがあります。われわれの意識や眼は自分と外の物を切り離して外側の物を見るように訓練されています。学校教育で身に着けた対象化して外にあるものを観察する見方は外の事象やその局所は良く分かるのですが、肝腎の「自分とは?」ということを知ることの課題には不得手であると思われます。
仏教の視点は一体化といって、自分と外の他者を切り離さず、一体として見て、考えるのです。そのために自分の姿、自分のことが良く気づかされるようになります。
 仏教の教えや経典の物語に接して行くと、いろんな分野で自分の姿に気づくようになります。たとえば、仏の無縁の愛を知らされて、自分の愛の小ささ(有縁の愛、自己中心的)を知らされます。仏の智慧の世界を知らされる時、自分は善悪の判断が、お粗末である、末通らないことを知らされます。幸せになるために幸せにとってのプラス価値を増やし、マイナス価値を少なくして行けば幸せになれると思っていたが、法話を聞いて結果として老・病・死という不幸の完成になることを気づかされます。明るい未来があることは生きる元気の元だと思っていたが、それだと死ぬまで幸せになる準備ばっかりで終わりますよ、といわれびっくりします。そして、今、今日を大事にせず、明日の夢・幻を追いかけていたのではと身にこたえます。健康や長生きが目的かのごとく考えているとそれは目的でなく、手段・方法・道具の位置にある物ですよ、と知らされ戸惑いをおぼえます。対象化は人間の迷いである、と指摘されると、自分のこれまでの人生は何だったのか、空過でなかったかと反省させられます。幸せを外に探して、探し出した人はいない、という言葉に出遇い、カール・ブッセの「やまのあなた」の詩の意味が読めたという感動があります。
そしてこれらのことが他人事ではなく、自分の身につまされて思われるのです。こんな気づきや、目覚めの積み重ねの中に自分の思いを翻されて、仏の教えをいただいて生きていこうという展開がおこるのです。
 仏法への出遇いがなかったら、人生の表層をのたうちまわっていたであろう、そして空過流転の人生を歩んでいることに気づかないまま心の内面の不足・不満を愚痴りながらの人生であっただろうと思われるのです。
 仏法との出遇いがあってまさに「実のある、実(みの)りのある人生を歩もうとさせて頂いています、南無阿弥陀仏」、と展開するのです。教え(仏教)との出遇いがなければ空過流転、不実な人生を歩み、愚痴を言って、生きることも、死ぬことも出来ないことであったであろうと強く思われる時、出遇えた教えは「真」(まこと)であった、「真実の教え」であった、といただくのです。不実さが見えるのは真実に出遇いがあればこそなのです。そしてそれは、よき師・友、そして親鸞・法然・善導等の高僧方、そして釈尊に連なる歴史との出遇いであったとの感動をもたらすと同時に目覚め、悟り、信心をいただくということにおいては、釈尊以来皆、100%同じ質のモノなのです。
 仏教の真実という証明は一人一人の人生において、教えに出遇い、そのことで自分の空過流転、不実であることに気づき、それを超える歩みに導かれる時、仏教の大きさに感動し、心に足(たる)を知る、深い豊かな充実感のなかで、真実の教えであったとの確かめがなされるのです。お経は「十方衆生よ」と呼びかけているのですが、いただく者には「私一人のため」の教えとうなずけていくのです。

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