3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2548)

 「涅槃寂静」といって仏さんの世界、境地は静かで平安であることが示されています。しかし、われわれの日常は身と心を惑わす煩悩に振り回されて、なかなか“穏やか”というわけにはいきません。先日も身内から私の仕事での対応について批判されました。それに関しては、私もどうすればよいかと自分なりに思案して良かれと思って、とった行動であったが「配慮が足りない」と批判されたのであります。お互いの考えを交換し合うのですが、どうしても自分の考えが正当であるという思いがお互いにあり、考えのぶっつかりあいが起こります。自分の考えを理解してもらえないもどかしさから、当然、怒り腹立ちの感情が伴います。
このようにちょっとした縁でわれわれの平安の心はすぐにかき乱されるのであります。それは「縁次第では何が起こるか分からない」という、あり方を私がしていることを示しています。このことに気づくには、ちょっと頭を冷やして、仏教では“いろいろな出来事は私に何かを教えんとしてある”と言っていたことがふと思い出されて、仏教ではどう考えるか、よき師であったらどううけとるだろうかと視点を展開させるとき、自分が思いにとらわれ振り回されていた現実を「南無阿弥陀仏」と見せていただくことになったのです。しかし、それに戻るのには数時間、時間を要しました。
煩悩は仏教辞典(岩波書店)では、「身と心を乱し悩ませ、正しい判断を妨げる心のはたらき、貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)のいわゆる三毒が煩悩の根源的なものであり、とくにその中の痴(ち)、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、智慧のない無明が最も根本的なものとされ、煩悩は自己中心の考え、それにもとづく事物への執着から生ずる。」「煩悩を知的な迷い(見惑)と感情的な迷い(思惑または修惑)とに分け、また貪・瞋・痴・慢・疑・見の六種を根本煩悩とした」と説明されています。
普通「寂静の世界」に至るには煩悩をなくす方法が道理として考えられます。菩薩の四弘誓願には『煩悩無量誓願断(尽きることのない多くの煩悩を断とうと誓うこと)』が誓われているように、煩悩を断ずることが大乗仏教の基本思想であり、智慧によって煩悩を断滅して、衆生が本来持っている仏性を明らかにすることが大乗仏教の求める「さとり」である、と考えられてきました。
先日、ある仏教の勉強会である60歳の過ぎの人が『現役時代は世間を生き抜くためには、損・得、勝ち・負け、善・悪を考え、煩悩を離れることはできないが、現役を退くと煩悩を働かせなくてもやっていけるから、楽になるでしょうね』という趣旨の発言をされました。お金を稼ぐという経済活動が主な世間の仕事を退職したら、煩悩を働かすことが少なくなり、悟りに近づくという過程を想定されているのでしょう。現代人の発想として無理からぬところであります。(実際は、現役を退いて社会生活をやってみても、予想のようにはうまくいかないでしょう)
このように自分の理知分別を働かせて、身と心を修めて、いわゆる煩悩を断滅していくと『悟り』にたどり着けるはずだと考えている人は、お釈迦様の修行を真似て実行、努力されていきます。私が仏に近づいてこの行く方向性は「聖道門」といわれるものです。
分別を働かせるというあり方は自分の考える頭(意識)が主人公で、いろんな物柄を向こう側に見て(対象化)善・悪、損・得、勝ち・負け、敵・味方、利用価値のある・なし等を判断して考えていくことになります。この分別は「お金や財産でも、自分の子供や、妻であれいざというときに本当に頼りになるだろうか」と考えることになります。分別の背後には自分の理知・分別を一番確かなものとしているために心の内面には無意識に「人生への不信」、“わたる世間は鬼ばかり”という不信感、不安がともなっているのです。心を穏やかにさせない元凶は、煩悩というよりは、煩悩の中の「分別する」というところに不安の大元があると仏教の智慧は言い当てるのです。
分別の無明性(痴、智慧がないこと)を転じていくところに仏の智慧のはたらきがあるのでしょう。貪欲(とんよく)、瞋恚(しんに、感情的な迷い、思惑、修惑)は生身(なまみ)がある限りなくならないのです。知的な迷い(見惑)が智慧によって転ぜられていくのです。
浄土門仏教は煩悩を断ずるということを強く言いません。分別の、正しい道理が分からない、智慧の無さ、そしてエゴで汚染され、その思いにとらわれることを問題にするのです。
浄土門の教えは仏の方が私の所まで来られて智慧と慈悲を授けたいという働きです。お釈迦様みたいに身と心を修めるということのできない者を大悲されて、自分の愚かさに気づかない、智慧なき者を救いたい、智慧がないために苦しんでいる者が居ることは仏としていたたまれない。どうしたら救うことが出来るか,思案に思案を重ねて、名前となって救いを届けようと、南無阿弥陀仏の名、名号(南無阿弥陀仏、汝、小さな殻を出て 大きな世界を生きよ)となって救いの道を成就されたのです。仏が私に代わって法蔵菩薩として私がしなければならない修行といわれるようなものは全部してくれていたのでした。この世でのよき師、よき友の私へのご配慮は菩薩としての私への働きかけであったのです。あとは私が法蔵菩薩の物語を受け取るか、受け取らないか、ということです。
法蔵菩薩のこの物語が現代人にはなかなか受け取れないのです。「そんなうまい話は信じられない」がおおかたの反応でしょう。
仏の心をよき師より、教えていただき、また、お経を通して仏の願いを知らされるとき、自分の煩悩を断じることが出来る、と考える私の分別の傲慢さに恥じ入り、私の思いを翻されて、翻しの繰り返しの結果、仏の前に頭を下げざるを得なくなるのであります。頭を下げてみて初めてうなずける仏の世界があるのです。浄土の教えは煩悩を問題とするよりも、分別を問題とした教えだといただくことです。正信偈(親鸞の著作、教行信証の中の偈)に分別が翻されたところを「不断煩悩得涅槃(煩悩を断ぜずして、涅槃の境地を得る)」と信心の姿をうたわれています。

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